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微苦笑問題の哲学漫才17:キェルケゴール編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 微:今回はデンマークの哲学者セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813~55年)、実存主義の創始者あるいは先駆者けと評価されています。
 苦:ああ、あのイケメン肖像画と薄幸な生涯から女性ファンの多い奴だな。
 微:写真を見た瞬間に女性ファンが確実に減る梶井基次郎という逆の例もありますが。
 苦:イケメンなので評価が逆転した五代友厚もいるな。昔は開拓使払い下げ事件の悪党だったのに。
 微:デンマーク語に忠実な表記では「セアン・オービイ・キアケゴー」ですが、過去の紹介者も研究者もデンマーク語を知らなかったので誤ったまま根付いてしまいました。以下、キェルケゴールで通します。
 苦:フランス人は今でもヘーゲルを「エジェル」と平気で発音してるくらいだからいいんじゃねえの。
 微:哲学者キェルケゴールは当時の哲学界を席巻していたヘーゲル哲学を激しく批判しました。それに加えて彼から見て内容を伴わず形式だけにこだわる当時のデンマーク教会も痛烈に批判者しました。
 苦:問題意識や行動パターンはショーペンハウエルそっくりだな。
 微:彼の生涯ですが、首都コペンハーゲンの富裕な中産階級の家庭の七人兄弟の末っ子として生まれました。父親のミカエルは自分は神の怒りを受けたと思い、どの子供もキリスト磔刑の年齢=34歳までしか生きられないと信じていました。
 苦:さすがかつての老人自殺大国北欧だな。まあ、自白していない事件やらかしたんだろうけど。
 微:キェルケゴール家は元は西ユトランド半島のセディングという荒野の貧しい羊飼いで、父ミカエルは幼いころ、その境遇から神を呪いました。
 苦:岩崎弥太郎みたいだな、土佐でくすぶっていた頃の。
 微:父は後年に首都コペンハーゲンでビジネスで成功したのですが、それを神の怒りと信じたのです。つまり、今の自分の世俗界での成功と富は貪欲の証拠、つまり地獄への片道切符であると。
 苦:持ち上げておいてから地面に叩きつけるという日本のマスコミにはまったんかな?
 微:また、その確信の背後に財を成す前にミカエルが犯した犯罪の存在を想定する人もいます。
 苦:だったらカルヴァン派にしておけばいいのに。
 微:もう一つの理由として、父ミカエルが母アーネと結婚する前に彼女を妊娠させたことです。ミカエルは既にクリスティーネという病弱な妻がいたんですが、その看護婦として雇ったのがアーネでした。
 苦:ハリスと唐人お吉みたいなもんか。そういう看護婦への視線を砕いたナイティンゲールは偉い。
 微:ハリスは「そういう意図ではなかったので困った」と苦しい弁解していますが。ミカエルはアーネに性的暴行を続け、その間にクリスティーネは肺炎で死んでしまうのです。
 苦:うわあ、日本の資産家の旧家のどろどろした話みたいだな。
 微:ミカエルはこれらが天罰として生まれる子供たちは若くして死ぬと思い込みました。で、実際に七人の子供のうち、末っ子のセーレンと長男を除いた五人までが34歳までに亡くなっているのです。
 苦:実は自分がやった虐待が原因だったりしてな。
 微:今の日本じゃねえよ! キェルケゴールも障害を持って生まれ、それを天罰と思っていたので、自分も34歳までに死ぬと確信していたのも自然なことでした。
 苦:それって、毒親の呪いじゃねえのか?
 微:自分の34歳の誕生日を迎えたとき、キェルケゴールはそれを信じることができず、教会に自分の生年月日を確認しに行ったほどでした。
 苦:その時、若年性痴呆と診断されたそうです。
 微:なんで教会が診察できるんだよ! 1835年に父の罪を知った衝撃をキルケゴール自ら「大地震」と呼び、この事件後、彼は放蕩生活を送ります。
 苦:その豪遊ぶりから、覚醒剤を食べさせて殺したと警察は断定し、捜査を続けました。
 微:ドンファンのネタはもういいよ!! もう一つ、キェルケゴールの人生と作品に多大な影響力を及ぼしたものは、彼自らのレギーネ・オルセン(1823~1904年)との婚約の破棄でしょう。
 苦:貴乃花と宮沢りえみたいなもんだな。
 微:高校生は誰も知らねえよ! キェルケゴールは1840年に18歳のレギーネに求婚し、彼女も受諾するのですが、その約一年後に一方的に婚約を破棄しました。
 苦:某超両家のご夫妻が長女にキェルケゴールの伝記を薦めているそうです。
 微:相手の母親が一番問題なんだよ!! この婚約破棄の理由については、彼の思想に関する研究の早い段階から重要な問題なのですが、その真相は今も定かではありません。
 苦:実は密約がバレそうになったので、関心を逸らそうと男女の関係に問題をすり替えたとか。
 微:それは沖縄だろ! 今日の文献からは、キェルケゴール本人が呪われた生を自覚していたこと、清らかな乙女であったレギーネを「憂愁」の呪縛に引きずり込むまいとしたことが判明しています。
 苦:だったら結婚を申し出るなよな、って話で。原因は別だな。
 微:また彼の障害が実は性的な障害だったのではないかと指摘する研究者もありますが、真相はいまだ謎に包まれています。
 苦:それは謎ではなくて皮に・・・
 微:止めなさい。ですが、二人はレギーネが他の男性と1847年に結婚したあとも愛し合っていたようで、レギーネは夫にキェルケゴールの著作の購入を依頼したり、一緒にその著作を読んだりしてます。
 苦:きっつい仕打ちだな。その夫、めっちゃ可哀想だな。密約は真実だったんだな。
 微:そこから離れろ! 本来の哲学路線に戻しますが、キェルケゴールの哲学は、ヘーゲルを典型とするそれまでの哲学者が求めてきたような「一般・抽象的な概念としての人間」ではありません。
 苦:まあ、ヘーゲルが想定していたのは理性がきちんと働く人間だけだもんな。
 微:自分自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を対象としている点が画期的です。
 苦:既製品ではなく、オーダーメイドで当てたそうです。
 微:スルーしますね。ヘーゲル哲学は当時のデンマークにおいても絶大な影響力を誇っていました。
 苦:ランナーそっちのけで宣伝バスを何台も走らせたそうです。
 微:それは2021年の日本だよ!! 有限者である人間は、現実の世界において、つねに自らの否定性の契機に直面します。
 苦:「もっと自分のことをポジティブに理解しようよ」とカウンセラーに言われてもだめでした。
 微:意識高い系はもういいです。有限者はその否定性を弁証法的論理で止揚=その否定性を克服して、より真理に近い存在に自らを高めていけると多くの当時の若者は信じていたわけです。
 苦:つまり昭和のマンガなら『エースをねらえ!』だな。「蜘蛛の巣」浴衣の宗方コーチが神、岡ひろみがキェルケゴール。
 微:金髪縦ロールの「お蝶夫人」こと竜崎麗華がヘーゲルで、ってノリツッコミしてどうするんだよ。
 苦:たまにはボケる側の苦しみを味わうといいよ。
 微:キェルケゴールにとっては、個々の有限的な人間存在が直面するさまざまな否定性、葛藤、矛盾は、ヘーゲル的な抽象論によって解決されるものではあり得ません。
 苦:ヘーゲル関係用語を聞くと意識が他界するわ。
 微:そっちの他界系でしたか。苦しい現実と歴史の内部で自らの行く末を選択し決断しなければならない主体、「呪われた出生」をした人間にとって、ヘーゲルの弁証法なんて意味を成さないのです。
 苦:作者山本すみかも自分の宗教を興して教祖様だもんな、山梨県で。
 微:そこまでは誰も聞いてないですから。キェルケゴールは『あれか、これか』を1843年に発表しますが、これは美的な人生を送ったAの手記と倫理的な人生を選んだBの手記が対比される編集です。
 苦:往復書簡形式だな、昔の平尾昌晃と畑中陽子の『カナダからの手紙』の書物版だな、掛け合いで。
 微:Aの手記で述べられている美的生活は、彼の放蕩生活のことですが、哲学史的な所を端折ると、要するに享楽を追及することは常に刺激と変化を求めることであり、変化がなくなると退屈に陥ります。
 苦:要するに谷崎潤一郎だな。
 微:退屈を避けるために人間は次々と新しい気晴らしを求めて気まぐれに生きることになりますが、キェルケゴール的に言えば、美的生活の行き着く先=美的実存は絶望でしかないのです。
 苦:絶望からも逃避しようとし続けると、赤塚不二夫みたいに必然的にアルコール依存だな。
 微:BはAの友人の手記設定で、「結婚の美的価値」に関する書簡として書かれています。結婚の真の課題とは愛欲と厳正な内面性を結合させることであると。
 苦:なかなか正直な書きぶりだな。自分は後者ができなかったのに。
 微:Bの話を続けると、率直さと誠実さとが結婚に永遠性を与えるので、内面的な誠実さがあってこそ、どのような経年劣化もせず、結婚は永遠性を保ちうると。
 苦:経年劣化って、既婚者には生々しい言葉だな。若い未婚者には想像もつかないだろうけど。
 微:人生において人間は「あれか、これか」、つまり相矛盾する美的生活か退屈な結婚愛のいずれか一つを選ぶ局面に遭遇します。そしてどちらを選ぶかは自由です。選んでこそ主体です。
 苦:悩んだら始末してもらうという選択はないんだな。
 微:それはプーチンさんに頼んでね。普遍的たりえない人間は自由な決断によって、自分自身が個性の限界に達している例外者であることを自覚し、それに相応する内面性を獲得できると主張したわけです。
 苦:つまり、自分にとって真理であるような真理を選べと。間違っても天地真理を選ぶな、と。
 微:「主体的真理」だよ!!『死に至る病』は1849年に偽名で出版され、「この病は死に至らず」という新約聖書「ヨハネによる福音書」第11章4節の言葉を紹介する所から話が始まります。
 苦:マタイのでは死んだけど復活させた話だったよな。
 微:この言葉はイエス・キリストがラザロについて述べたものですが、それにも拘わらずラザロは死んでしまいます。ですが「この病」はラザロの死因ではありませんでした。
 苦:既に殺された人間を刃物で刺して、「俺が殺した」と言ってるようなもんか?
 微:いいえ。イエスも奇蹟でラザロを生き返らせると宣言しますが、生き返りはしませんでした。
 苦:一体、何が言いたいんだ?
 微:この話はキェルケゴールに言わせれば、人間的にとって死は全ての終わりですが、キリスト教の「永遠の生命」の観念から見れば全体のごく一部にすぎないのです。
 苦:いや、そこはニーチェの「弱者のルサンチマン」的解釈の方が的確だと思うが。
 微:病気を取り除き、死んだ人間を甦らせても永遠の生命にとっては意味がないと教えたものだと。
 苦:ここで壺や多宝塔を売ったら、完全に怪しい宗教だな。
 微:それは現世の幸福を求める行為です。苦痛をうめく人が「死ぬより苦しい」と吐露したところで、それは「死に至る病」ではありません。キリスト教的には死でさえ「死に至る病」とは言えないのです。
 苦:そうだな、最後の審判で「義人」と判定されたら、イエスの元で永遠に生きるもんな。
 微:では何が「死に至る病」なのかと言うと、人間が自分を人間として認識し得ない悲惨なのだとキェルケゴールは指摘したのです。絶望を繰り返したキェルケゴールは、神の前の単独者となれたことで絶望から救われました。
 苦:ええ話やねえ、おみやげ、おみやげ。(←40代後半以上の人ならわかりますね)
 微:ついでにキェルケゴール名言集を以下に記します。最後は前向きなもので締めますね。

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作者の補足と言い訳
 敢えて挑発的なことを書かせてもらうと、思想家の偉大度を測る物差しは、活動期間を分母に、「その人が残した名言の数」を分子で示した数字だと断言させていただきます。人を動かしてこそ、社会を動かしてこその思想家です。ですから、数だけでいけばマルクス、レーニン、毛沢東が上位を独占するのでしょうが、率にすればソクラテス、イエス、キェルケゴールはかなり上位に来るでしょう。
 さらに挑発的なことを書かせてもらうと、「見た目が90%」「見た目で実力以上に過大評価されている」思想家・学者・作家がかなりいることも事実だということです。学者なら亀山郁夫、作家なら芥川龍之介・島田雅彦などです(これ以上は身の安全のため伏せます)。思想家で見た目で最も得をしてしている筆頭はやはりキェルケゴールでしょう。
 それにつけても思うのは、残されているイエスの教えの多面性と刺激する力です。おそらく宗教の開祖となる人物は、相手に合わせてその人に最適な言葉をかけるのですが、その言葉は人間の本質を衝いているので、その言葉を目にした人間には「これは自分のことだ!」との一種の天啓のように感じられるのでしょう。それを感じたキェルケゴールの言葉を「自分に語られた言葉」として捉える人が出て、さらにニーチェやハイデガー、サルトルに進んで行くのでしょう。
 「自意識過剰」の語は、筆者の個人的見解では宮崎勤事件と酒鬼薔薇事件とともに死語となったというか、生産性を失ってしまったと思います。ですが、これなしには宗教も思想もないのだなあ、と思うと、21世紀日本の若者たちの「オレ様主義」は、一体、どんな生産性を秘めているのか。楽しみなような、恐ろしいような・・・。神様はトイレにではなく、ネット上に生まれるのでしょうか?


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