(2)「ドナドナ」の日本定着と意味の重層化~燕、栗毛、子牛、旅人、麦~
2.ジョーン・バエズ来日と「ドナドナ」の定着
(1)アメリカのフォーク・リヴァイヴァルとジョーン・バエズ
20世紀初めのアメリカ合衆国でフォーク・リヴァイヴァルは芽吹いた(1)。イギリスのケルト系そして東欧系移民が母国から伝えた民謡、西部開拓時代に生まれた民謡・伝承歌謡を教育家や研究家が発掘・紹介することから始まった。第1次世界大戦後はその活動にミュージシャンも加わり、それらを自分で独自のスタイルで演奏するようになった。つまり、フォーク・リヴァイヴァルは民謡・伝承歌謡の発掘・紹介に始まり、ミュージシャンが自ら歌い演奏することで「フォークソング」となった。実際、第2次世界大戦後にフォーク・リヴァイヴァル運動に参加した歌手・演奏家はライブコンサートで聴衆とじかに交流することを好み、この延長線上に1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルが生まれた。当然、ラジオとテレビの普及、録音・再生技術の発達、レコードの制作と流通といった20世紀の新しい音楽産業に乗り、フォーク歌手が「アコースティックギター」をかき鳴らして歌うフォークソングは大衆化し、「ポピュラーミュージック」になった(2)。
ジョーン・バエズのフォーク歌手としての経歴は、1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルに主催者の一人ピート・シガーに飛び入り参加させられたことから始まった。1960年10月、最初のアルバム『ジョーン・バエズ』がヴァンガード・レコードから発売され、彼女自身がアコースティック・ギターを演奏する「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナル・フォーク・バラード、ブルースが全13曲収録されている。選曲はあくまでも伝統民謡であり、バエズの歌う「ドナドナ」は本来はベトナム反戦歌ではなかったのである。しかも「ドナドナ」だけは作詞・作曲者が明記された楽曲だった(3)。
(2)1967年のバエズ来日
アメリカのフォークソングは本来、民謡・伝承民謡だけではなく、賛美歌の歌詞を変えたり勝手に即興で編曲した労働歌や政治批判の歌も含んでいた。1961年にバエズは2枚目のアルバム『ジョーン・バエズ2』の発表後、公民権運動、ベトナム反戦運動に関与していったが、それはアメリカでは自然なことだった。彼女はアメリカを代表するプロテストソング(フォーク)歌手の一人、もっと言うなら「フォークの女王」となった(4)。
先述の通り、バエズ版「ドナドナ」の日本シングル発売は1964年、日本語版「ドナドナ」のテレビ・ラジオ放送が1966年。ちなみにこの年にボクシングのヘヴィ級チャンピオンだったモハメド・アリが徴兵を拒否してライセンスを剥奪された。当時25歳だったバエズ自身も徴兵拒否で投獄中だったデヴィッド・ハリスと結婚し、反戦姿勢を鮮明化していた。アリとバエズはアメリカ政府にとって非常に政治的な存在だった。
特にバエズが歌う「ドナドナ」の子牛は、当初は黒人の公民権運動の文脈において「南部の白人からリンチされる黒人(差別解放運動家)」を表象するものとしても歌われ(5)、1965年にジョンソン政権が北爆を本格化してベトナム戦争に介入してからは、「屠殺される仔牛」は「ベトナム戦争に徴兵され、死体となって帰ってくる若者」の姿と重なってベトナム戦争に対するプロテストソングに生まれ変わっていた。バエズは当時の日本の大学生や知識人には何よりもベトナム反戦活動を象徴するフォーク歌手だった。
日本でも脱走兵救出運動が始まった1967年、バエズの初来日コンサートが2月1日に東京厚生年金ホールで行われ(6)、テレビでも中継された。この日歌われた楽曲リストを見ると「ドナドナ」「朝日のあたる家"House Of the Rising Sun"」などのバラードよりも反核の「雨を汚したのは誰"What Have They Done to the Rain"」、反ベトナム戦争の「サイゴンの花嫁"Saigon Bride"」といった反戦・プロテストソングに軸足がおかれていた。
『ジョーン・バエズ自伝』によると、バエズの通訳とコンサート司会者を務めた高崎一郎にはアメリカCIAから強い脅しがかかっており、コンサートでのバエズと日本人観客の掛け合いと相互作用、要するにバエズのアジテーションに観客が興奮してコンサート会場が反米集会場、ベトナム反戦集会場にならないよう、彼はわざとバエズの呼びかけと煽り文句を誤訳した(7)。
CIAの意図は明らかで、2月1日の東京でのコンサートの2週間前に来日していたバエズはベ平連を含むベトナム反戦運動に参加し発言していた。1月19日には大阪大学講堂で開催された大阪府学連・大阪学生平和団体連合共催の「ハノイ爆撃抗議学生平和集会」に、25日には冒頭の写真のように「べ平連」が東京千代田区の社会文化会館ホールで開催した集会「みんなでベトナム反戦を!ジョーン・バエズとともに」に参加している(8)。
「反差別・反戦の歌手」と「トラディショナル・フォーク・バラードの再生者」としてのジョーン・バエズ。この二つの異なる像はアメリカでは一体だったが、1960年代後半の日本では分裂していた。アメリカの政治情況、ベトナム反戦運動、学生運動を知る大学生・知識人らにとっては何よりも前者であった(9)。だが日本語版「ドナドナ」だけしか知らない普通の人はアメリカの「民謡」「童謡」として受け入れたのだった。
そもそもフォークソングは第1次世界大戦後に発掘・再評価された「民謡」「伝承歌謡」が第2次世界大戦後にポピュラーミュージックになったものだった。だが、理由は最終章で述べるが、日本では1972年にフォークソングと民謡は「別の音楽」となった。そして日本語版「ドナドナ」は、教科書関係者が知らなかったのか、それとも知らぬ顔をしたのか、「アメリカの民謡」として1973年に小学校音楽教科書掲載楽曲に採用されたのである。それを可能とした1960年代の日本の農村とそのメンタリティ検討するための準備作業として、次節で日本語版とバエズ版の歌詞を比較・検討していきたい。
註2
(1)アパラティア山脈の鉱山労働者や鉄道労働者となったスコットランド、アイルランド、東欧からの移民に伝わる民謡や音楽、いわゆるヒルビリー・ミュージックの採集と合わせて、世界恐慌後に全米を無賃乗車しながらさまよい、自分の人生を歌い、労働歌や社会主義の考えを説き、労働者を鼓舞・組織化したホーボー"Hobo"の歌も採集された。
(2)1965年にボブ・ディランがエレキギターに持ち替えてニューポート・フォーク・フェスティバルに出演した時の観客からのブーイングは、フォークがアコースティックギターと不可分のものと考えられていたことを教えてくれる。
(3)彼女のデビューアルバム『ジョーン・バエズ』収録の他12曲は民謡として作者は示されていない。
(4)『ジョーン・バエズ自伝』(矢沢寛・佐藤ひろみ訳、晶文社、1992年)には、10代の彼女がギターと歌に習熟し、出演料をもらって演奏する側になるまでの流れ、そして当時27才だったキング牧師の演説を直接聞いて感動したことが記されている。反差別の社会運動家としての彼女の若き日々が窺える。
(5)『ジョーン・バエズ自伝』130~133頁には、1962年に南部のサウス・カロライナでKKK白人につきまとわれ、FBIもキング牧師に接触しようとしていた彼女の警備と監視の両方でつきまとっていたことが記されている。
(6)このコンサートは『ジョーン・バエズ・ライブ・イン・ジャパン』(Joan Baez Live in Japan)としてキングレコードから1973年に発売されたが、LP盤しかなく、稀少盤で筆者は未見。また『ジョーン・バエズ自伝』には、通訳をめぐるCIAの画策を『ニューヨーク・タイムズ』が1967年2月21日付けで報じたことが記されている。
(7)例えば「この『雨を汚したのは誰』は原爆をうたった歌です」を「この公演はテレビ中継されます」に、「私は自分の払ったお金が、ベトナム戦争のために使われたくないので、税金を払うのを拒みました」を「アメリカでは税金が高い」になど。また細見和之『ポップミュージックで社会科』(みすず書房、2005年)もCIAによる妨害について39~42頁で触れている。またバエズ版「ドナドナ」は朴正煕政権下、共産主義を煽る歌として放送禁止だった。
(8)<http://www.jca.apc.org/beheiren/nen1967.html>より。このウェブサイトはベ平連の活動記録を残しているが、URLからは入れない。/nen19xx部分を入れると月ごとの活動記録に到る。この写真については、左から一人おいて、いいだ・もも、城山三郎、開高健、小田実、バエズ、高石ともや、鶴見良行、久保圭之介、栗原幸夫、深作光貞の各氏。
(9)評論家呉智英は『危険な思想家』(メディアワークス、1998年。のち同名で2000年に双葉文庫入り)で、低学歴層には英語版歌詞を読めない・目にすることもないために「ドナドナ」がベトナム反戦歌であることを知らないという二重の差別を受けていると書いている。
(10)バエズのベスト版が日本でもアメリカでも何回か発売されたが、日本のベスト版には必ず「ドナドナ」は入っているが、アメリカでは必ずしも収録されていないことにも窺える。