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「選ばれなかった道」


以前にも書いたかもしれないが、
大学入学に際して、
私は「どちらにしようかな」をした。

入社する会社を選ぶ時もした。


結果的に、その当てずっぽうで
道をそのまま選ぶことは無かったし、

もちろん行く大学が異なれば、
今とは違う大学生活、友人関係、
進路、人生、があったと思う。


しかし、
私は今まで歩んできた人生すべてを、
本当に素晴らしい、幸せだと思っている。


たまに、もし私が、
経済的に恵まれない家庭に生まれていたら、経験してきたアレはできない、

もし私が今恵まれていなかったら、
こんな生活は本当に現実としてできない


と思って恵まれて
30年弱生きてきた自分の環境に
感謝したり、それならばもっと
頑張らなくてはならないなんて
思うことはあっても、

あの人の家みたいに……だとか

もし私があの時違う学校に行っていたら……とか


あの時違う選択をしたら……
ということは、

あまり考えない。



もちろん、親に

「本当なら働いてるんだ」
なんて言われれば、

まあ、そりゃ27歳だし、
そうだね働くべきだねえ、
なんて思うことはあっても、

「本当なら?ってどういうこと??」
と思う。



本当もうそも無い。

私は、新卒すぐに
仕事を辞めてきてしまった。

確かに、新卒すぐに仕事を
辞めたことで
職歴を失ったこと、
仕事をしていれば
経験できたことをしなかったこと、
新卒だから許される
年齢を過ぎたこと
お金を稼げていないこと、
今も自立できないこと
などという現在の、
自立できないまま変わらない
自分の情けない状況に対して、
嘆くことはあっても、



あの日、あの時、あの仕事を
あのタイミングで辞めてきたこと、
辞める決意をしたこと、

に関してはこれまで一度も
後悔したことは無い。




また逆に、仮に、あの日、
辞めないで、続けていたとしよう。

その時、続けたことを誇りに思うし
経験もしたであろう。けれど、
おそらく私はどの道を選び、
それに対して未来となった今の自分が
同じように健康で同じように元気なら
後悔しないと思う。

私は頑張ったなあ、
なんて言うだろう。



今、無職満3年を生きてきた私が、

「まあでも、あの時あの道を選ばなかったから、人間関係も自分も整理出来たし、こうして発信することを選んだし、経験したことの無い仕事を経験したんだよ」

と言うのと全く同じように。






 今年のはじめ、Facebookで
2020年8月に投稿された、
ある馬に関連する団体の
投稿を目にした。




 名誉のために名前は伏せておこう。




 ロバート・フロストの詩を
和訳したものが引用されていて

 「行かなかった道」と訳し

 その上に、


ー 人とおなじ道は歩かない そう決めて選んだ道が今の自分たちです ー

 
 と書かれていた。





 英米文学科出身の私だけれども、
怠惰な私は、
英米の文学に関する知識はあまり持ち合わせていなくて、

 英米院卒なのに、恥ずかしながら
シェイクスピアだって四大悲劇作品も、途中で読みっぱなしのままだ。




 それでも、ロバート・フロストの

The Road Not Taken

のそれの解釈が違うことは、
すぐにわかった。


 まあ、英米系を通ってきたひとなら
きっとわかることだろう。




解釈も全く誤ってるけれど、
そもそも、
The Road Not Takenを、
「行かなかった道」と訳している点が
違う。




 より正確に日本語的な意味で言えば
「選ばれなかった道」の方が
ニュアンスとしては正しい。




 
 まずは、原詩をみてみよう。





 詩の、漢詩でいう承の位置にあたる
2つ目のまとまりをみてほしい。


ーThen look the other, as just as fair, ー
(こちらも劣らず美しい(小林訳)
:訳だけだと解釈も難しいものだが、
fairな目で見たという点に着目して欲しい。)


同じように見て、そちらの方が良さそうにみえたのは、

ー Beause it was grassy and wanted wear;
Though as far as the passing there
Had worn them really about the same, ー
 (むしろよさそうに思えたのは、草が生い茂っていて踏み荒らされていなかったからだ。もっとも、それを言うなら、ここを通った人々によって実際はどちらもほとんど同じように踏み荒らされていたのだが。)(小林訳)

と述べている。


 

 この詩に出てくる“私”は、
"どちらの道も劣らず美しい道"だ、
と言っているのなら

 人と同じ道は歩きたくない、
歩かない、違う道の方が良いという
解釈はこの時点から、異なるといえる。




 ある朝、この分かれ道に立った
詩人。



どちらの道も踏まれず
黒ずんでいない落ち葉に埋もれて

いて、最初の道(草むらの先で見えなくなって折れる道)を、


別の日にとっておく 


ことにして
(この道を進まない、とは言っていない)


気まぐれでもうひとつの踏み鳴らされていない道を選んだ。






そのために、このふたつの道が、
変わらずどちらも同じような道であることが繰り返し強調されているのである。




その「同じように魅力的に見える道」を選んだ時、

“歩いていけば、どうせ同じように
踏み分けられるのだ”


と考えている。





 結局、どの道に進んだって、
そもそも「踏みならされていない」道などはなく、どちらの道も
「同じように続いて」
「落ち葉には踏みつぶされて黒くなった跡はひとつもない」のである。


 つまり、フロストは

私たち人間は、自分をよく見せようと、人生の不確実性を体裁よくごまかし、または勝手に良い結果だったと、結果から納得する、ということをして、


人間は人生に善し悪しがあることを理解した上で、意識的に選ぶ選択の連続だとみなして自分を慰めようとするのだ、


というアイロニーを含んだ諦観に満ちている詩としてこれを書いているだろう。





 私たちは、人生で二手に分かれた道の分岐点に立った時、どちらの道が良い道かは知ることができず当てずっぽう(恣意的)で道を選ぶことが多い。




 そして、その道を進んで行った先で、この道を進んできてよかったのだ、あの、分岐点で、私は人が行かない道を選んだから素晴らしいのだ、とため息まじりに自己陶酔のように語り続けるのだろう、
と皮肉っているのだ。
(キダー&オッペンハイム, 2018)




 奇しくも、この、某団体は、
そのアイロニーの詩を誤解していることで、フロストの詩のユーモアに打ち返されることになってしまった。


この団体の詩の訳には、
通った踏み荒らされていない道について
「誰かが通るのを待っていた」と
書かれている。
これは、"wanted wear"の部分を
訳したのかもしれない。



だがしかし、仮にそう解釈した場合

"And both that morning eaqually lay
In leaves no steps tradden black.
Oh, I kept the first for another day!"

の部分はどのような情景になるのだろうか。


だって、


どちらの道も、まだ踏まれず黒ずんでいない落ち葉に埋もれていた(つまり新しい落ち葉がどちらの道にも積もっていてその、落ち葉が積もった両方の道はその朝まだ誰も踏んでいない)

どちらの道が踏まれるのを待っていた道となるのだろうか。




ここでやはり、どちらに進むかを
気まぐれで選んだ語り手と、

その語り手が、何年も何十年も経ってから、自分の今まで歩いてきた人生を肯定するために、自分の今もつ地位を慰めるために

「あの時、あの分かれ道で、
俺は人が行かない道を選んだんだ、」

と言い聞かせたいだけなのだ、

というアイロニーを十分に理解出来る。


だから、「選ばれなかった道」
という題


"The Road Not Taken"という言い方であって


けっして、

"I Do'nt Take The Road"には
ならないのだ。


人と同じ道を行かないと決めて歩むのではない。




その時々の、自分が

それが例えその時の状況なり、
能力なり、気まぐれなりで
選んだ道でも、選ばざるを得なかった道でも、


人間という生き物は、
今まで自分が歩んできた道を
肯定したい、間違っていなかったと
言い聞かせたい。




そして、そこには

根底に"人生には善し悪しがある"ということを人間が理解しているからなのだ、


と論理的に指摘しているのである、


フロストの詩を引用したことで、
この団体はずいぶんと
フロストのいう
アイロニーをまさに自身で
表現してしまってその詩のアイロニーに逆に皮肉られているなぁ、

などとおもった。


世の中、教養って、大事ね。


そんなことを私は、学んだわ。


参照

デイヴィッド・S・キダー, ノア・D・オッペンハイム. (2018).『1日 1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』. 小林朋則訳. 東京:文響社.


#ロバートフロスト

#theroadnottaken

#アイロニー

#フロストの詩の誤解

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ゆかまる
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