見出し画像

③パトリック・ピアース最愛の弟「ウィリー・ピアースの足跡」

ガバガバ歴史探求続き。前回と同じく、パトリック・ピアースの弟ウィリー・ピアースの人生を紐解いていこう。

美術学校に通いながら、ゲール語連盟の一員としてゲール語を指導するなど、忙しい日々を送るウィリー。

そんな彼に、運命を大きく変える出来事が起こる。1908年、兄パトリックによる「聖エンダ学校」の設立だ。

画像1

聖エンダ学校は、子供たちに英語とゲール語で教育を施し、バイリンガルに育てることを目指した学校。カトリック教会の影響力を排除したり、体罰を禁止したり、当時としてはあらゆる点で先進的だった。イギリス支配下の教育メソッドに反旗を翻した点も、大きな特徴といえる(詳しくは「アイルランド建国の父の夢のあと――「ピアース・ミュージアム」訪問記」を参照)。

とはいえ、もう何度書いたか分からないが、聖エンダの運営には常に「借金」の文字が付きまとった。パトリックは所持金を学校設立にほぼ費やしたため、十分な手伝いを雇うことができなかった。円滑な学校運営には、家族全員の助けがどうしても必要だったわけである。

ウィリーは兄の助けとなるべく、美術学校に通いながら、聖エンダで美術を教えるようになった。

さて、ここで気になるのがウィリー先生の評判だ。生徒は彼をどのように思っていたのだろう?

複数の証言から察するに、ウィリーは多くの生徒に慕われる先生だったと思われる。「変わり者の芸術家だが、優しく温和な人物だった」…ほとんどの生徒がこのように記憶している。また、授業のテーマを毎週必ず前もって考え、徹底的に準備してくる真面目な先生だったようだ。

元生徒であるミロ・マクギャリーは、「優しくて愛らしい性格、兄に深く寄り添っていた…そして何よりもアーティスティックだった」と証言している。

聖エンダの元生徒で、のちにピアース家の執事になったデズモンド・ライアンは、ウィリーと初めて会った時の印象をこう書き残している。

彼が聖エンダの美術講師として初めて現れた時のことをよく覚えている。静かで、神経質な物腰、流れるようなネクタイに、豊かなカーブを描いて額から後ろにブラッシングされた長い黒髪。彼は私たちに、全てにおいて芸術家らしいという印象を与えた。

『The man called Pearse』P68より

ウィリーがゲール文化のスポーツを好んだことも、生徒たちとの絆を深める要因になった。彼は年長の学生とよくハンドボールの試合を行い、時にはトーナメントを主催することもあったようだ。

ハンドボールの試合にまつわる、こんな印象的なエピソードが残っている。試合中、生徒のケネス・レディンが誤ってウィリーにボールをぶつけてしまった時のことだ。

僕は芸術家のウィリーピアースを傷つけてしまった。あの優しいウィリー・ピアースを、誰も傷つけない彼を。僕は傷つけてしまった。彼を侮辱してしまった。僕は彼の部屋に行って、そう言った。つまり、彼は僕の美術の先生で、僕は先生を傷つけてしまったのだと。

『Willie Pearse: 16Lives』P122より

かわいそうなほど動揺するケネスだが、ウィリーは彼を怒らなかった。

美術の先生だって? ウィリーは言った。ハンドボール場じゃ僕は美術の先生じゃないよ。君こそが僕の先生で、貴重な教訓を教えてくれた。次は兎みたいに耳をピンと立てておくよ。

『Willie Pearse: 16Lives』P122より

ケネスはあまりの感動からか、ウィリーの性格について、「アッシジのフランチェスコ(※1)のように、無償のやさしさを宿している」とまで評した。

内気な青年だと語られることの多いウィリーだが、このように気さくで社交的な面も持っていたようだ。


さて、ここで少し脱線して、ウィリーの俳優としての活動も記しておこう。

ウィリーの人間性を語るうえで欠かせない要素は、彫刻、ゲール語、そしてもうひとつが「演劇」だ。

彼は幼いころ、兄パトリックとさまざまな劇を演じる遊びをしてから、俳優に強いあこがれを持つようになった。

ウィリーの知人で女優のMáire Nic Shiubhlaigh(※2)は、観劇するウィリーの様子を思い返している。

彼は劇団に深い興味を持っていました。彼はある種の畏怖の念を抱いて、役者や舞台を見つめていたのです。

『Willie Pearse: 16Lives』P85より

ウィリーの所属するゲール語連盟では、毎年ゲール語の演劇会が行われていたが、連盟に加入したばかりのウィリーは参加しなかったようだ。

ウィリーと劇場の関わりが最初に記録されたのは、ゲール語連盟に加入してから8年後の1906年のこと。新しく設立された「Cluicheoir nahéireann」と呼ばれる劇場で、舞台デザインや振付の手伝いをしたらしい。

聖エンダが設立されてからは、学校演劇に俳優として参加したり、舞台デザインを手伝ったり、より積極的に演劇の活動に携わるようになった。

1909年をすぎると、ウィリーはさらに活動的になり、妹のメアリー・ブリジッドや甥のアルフらとともに、「レンスター舞台協会」という名のアマチュア劇団を設立した。

が、この劇団の活動は思うようにはいかず、ピアース家の借金をさらに増やす結果に終わるのだが…(元々借金多いんだから多少増えたところでへーきへーき)。

このように演劇に関わる活動をしていたウィリーだが、生来の内気性のためか、俳優の才能はあまりなかったようだ。Máire Nic Shiubhlaighによると、本人もそのことに薄々気がついていたらしい。

彼は自分の話し方が演技に不適格であると気がついていました。完璧にしようと一生懸命努力はしていましたが、ついに自分の声を完全に手懐けることはできなかったのです。リハーサルでは、すべての指示に謙虚に従っていました。彼はしばしば誰かをわきに呼んでは、"僕うまくできたと思う? ベストは尽くしたんだ" と囁いたのです。

『Willie Pearse: 16Lives』P114より

生まれながらの「内気な性格」は、ウィリーを何度も苦しめる要因となった。彼自身も、おそらく自分の性格を恨めしく思っていただろう。

しかし、ウィリーの友人だったデズモンド・ライアンは、彼の魅力をこのように語っている。

会話の中では、ウィリアムピアースはおもしろく、親しみやすかった。彼は普段は本の話をしたが、時に政治の話をすることもあった。横柄でお高くとまった人間たちに対する、彼の批判を聞くのは楽しかった。女性に対し深い尊敬の念を持ち、女性を男性よりも信頼していた。彼の宗教的信念は深く、熱心であった。

『The man called Pearse』P72より

Máire Nic Shiubhlaighは、ウィリーを「兄パトリックよりも見栄えがよい」と語り、ジョセフ・プランケットの妹ジェラルディンは、国立図書館でウィリーの穏やかな顔つきと美しい手を見ることを楽しみにしていたという。

ときに「パトリックの模造品」とまで言われるウィリーだが、彼は間違いなく、独立した人間として、多くの魅力を持つ男性だったわけである。

悩み苦しみながらも、人々に愛され、自らの興味を熱心に追究していたウィリー。そんな彼にも、少しずつ革命の気配が近づこうとしていた。

つづく

_______________________________________

(※1)12世紀の人物。イタリアにおける最も著名な聖人のひとりで、フランチェスコ会の創設者

(※2)アベイ座の創設者の一人で、共和主義の活動家でもあった。ウィリーと同じゲール語連盟の一員だった彼女は、ピアース兄弟をはじめとした多くの活動家と関わり、のちにイースター蜂起にも参加している


<参考文献>

『The man called Pearse』by Desmond Ryan
https://archive.org/details/mancalledpearse00ryanuoft/mode/2up

<参考ページ>
https://en.wikipedia.org/wiki/M%C3%A1ire_Nic_Shiubhlaigh
https://www.dit.ie/1916/mairenicshiubhlaigh/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?