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③アイルランド建国の父を育んだ者たち――パトリック・ピアースの「父と母」

前回に引き続き、パトリック・ピアースの母親マーガレット・ピアースがどのような人生を歩んだのか、かる〜く見ていこう。

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1908年9月8日、長男パトリックが男の子のためのバイリンガル学校「聖エンダ」を設立すると、マーガレットや長女マギーら、ピアース家の面々も運営を手伝うようになった。

マーガレットは、母親と従姉妹のミス・ブレディと共に家庭仕事全般を受け持った。長女マギーは手伝いのほか、1910年を過ぎるとフランス語も教えるようになった。同じく次女メアリーも、1910年以降は音楽のクラスを受け持つようになった。父親が残した会社運営を手伝っていた次男ウィリアムは、非常勤講師として美術を教えた。

メアリー以外の家族は聖エンダに寝泊まりし、学校の運営に専念。まさに家族総出の一大プロジェクトであった。

アイルランド建国の父の夢のあと――「ピアース・ミュージアム」訪問記でも軽く説明したが、改めて、聖エンダがどのような学校だったのかを見ていこう。

聖エンダ学校は、アイルランドの子供達を英語とゲール語の二言語話者、すなわちバイリンガルに育てるために設立された。これは、長年アイルランドを支配してきた英国の教育体制を打破すること、アイルランドの古い文化を敬い、独立国アイルランドを当然とみなす人間に育てることを意味している。

聖エンダは当時としては非常に珍しい、校長も教師も聖職者ではない学校だった。当時のアイルランドの小・中学校はカトリック教会の支配下にあり、校長も教員も、聖職者が担当することが当たり前であった。しかし、パトリックは彼らの影響力が及ぶのを嫌った。

加えて、パトリックは他の多くの学校とは違い、体罰を可能な限り排除した。彼は「間違いを犯したために体罰を加えることは、愚かさの極みであり無意味な愚行である」「教師は生徒たちにとって恐怖の対象であってはならない…教師は賢く寛容な友人であるべきだ」と強く信じていたのである。

今となっては信じられないことだが、当時のアイルランドでは教師による激しい体罰が横行していた。アイルランドで体罰が違法となったのは1996年であることを鑑みれば、パトリックの考えがいかに先進的であったか分かるだろう。

また、単なる詰め込み教育を施すのではなく、生徒たちの能力に合わせてカリキュラムを組んだ。教師と生徒は同じ食事を取り、綺麗なトイレも与えられた。これら全てが、当たり前のことではなかったのである。

規律と体罰で子供達を縛る学校ではなく、学ぶ意欲に溢れた「子供達のための王国」を作る…当時としては非常に優れた子供中心の教育システムに、何人かの訪問者は困惑を隠せなかったそうだ。

さらに、家庭仕事をピアース家の女性たちが担当したことで、聖エンダは家庭的で温かな雰囲気を作ることにも成功した。

当時の生徒は、聖エンダの独特な雰囲気についてこう証言している。

ことごとく非規律的…刑務所、更生施設、病院、そのいずれでもありませんでした。それどころか、私たちは夜になればミセス・ピアースのもとにビスケットをもらいに行きましたし、失敗すれば、今度はミス・ピアースやミス・ブレディのもとへ、一杯のミルクや一切れのパンをねだりに行きました。それこそが聖エンダの規律的ではない、家庭的な雰囲気の秘訣でした。女性たちが家庭に関することを担当していたのです。もう一枚毛布が欲しくなっても、無感情な平修士に会う必要はありません。ミセス・ピアースやミス・ピアースのところへ行けば、それが手に入ったのです…あなたが母親の所に行くのと同じようにね。

『Sisters of the Revolutionaries』P56より

ダグラス・ハイド、スタンディッシュ・ジェームス・オグラディ、ウィリアム・バトラー・イェイツ、コンスタンツ・マルキエビッチ、モード・ゴン、ロジャー・ケースメント、ショーン・オケーシーといった著名人らもパトリックの活動を積極的に支援し、初期聖エンダは大変な成功を收めたわけである。

(ちなみに、イェイツとパトリックの付き合いは意外と長く、聖エンダが財政危機に陥った際、イェイツは募金活動にも協力している。元々は敵対関係にあったのだが…。この話はまた別の機会に記そう)


評判も上々、この先も安泰だと思えるところだが、聖エンダには無視できない大きな問題があった。それは金銭的余裕の無さである。

パトリックは、学校プロジェクトを発足した時点でお金をほとんど持っていなかったため、借金して不動産を購入せざるを得なかった。聖エンダが開校したとき、すでに家計は火の車だったわけである。

またパトリックは子供達への投資を惜しまない…あまりにも惜しまなすぎる男であった。

彼は大変優秀な頭脳を持っているし、様々な思想を元に自分の理想を形作ることに関しては、天才的だと言ってもよい。しかし財務能力は違った。彼は借金返済に必要なお金を学校の設備投資に回してしまうなど、お金のやりくりにおいては人並み以下の能力しかなかった。

さらにパトリックは、生徒が増え学校が手狭になったこと、子供達をもっと静かな環境で勉強させたいとの理由で、1910年に学校をダブリン郊外へと移転させる。

結果論で言えば、これが聖エンダ凋落の決定的要因であった。

移転のためには、当然ながら新たな不動産購入費用等の資金が必要である。ただでさえ借金を抱えた聖エンダにとって、移転は財務的にハイリスクだと言わざるを得なかった。

周囲の人々も同様に忠告したものの、パトリックは移転を強行。案の定、不動産購入や設備投資のために更なる借金を重ね、聖エンダの経営はますます苦しいものになってしまった。教師を雇うことも難しくなり、家族の負担は年々増えていった。

1912年を過ぎると、聖エンダは新たな困難に直面することになる。それは、パトリックの政治活動への傾倒である。

穏健派から過激派へ…壊れていく理想と家族


パトリックは1913年頃から政治の大きなうねりに身を置き、徐々に政治界隈で頭角を現すようになった。

当初、彼の政治思想は比較的中立寄りで、過激な集団からは穏健派とさえ思われていた。しかし、1914年に資金調達を目的としたアメリカ講演旅行をして以降、強い過激思想に染まった。

アメリカに拠点を置くアイルランド急進主義組織「クラン・ナ・ゲール」のメンバーや、アイルランド反政府勢力の指導者であり亡命者、ジョン・デヴォイの主張に感化され、アイルランド独立のためには、英国への武装抵抗しかないと考えるようになったのである。

子供達への教育を通して国を変える…当初の理想は過去のものとなっていった。

1915年初頭、子供達の活気に満ちていた聖エンダは、武器や弾薬の製造・貯蔵に利用されるようになった。学校の裏手には小さな射撃場が作られ、聖エンダで暮らしていた元生徒たちが訓練に使うようになった。当然ながら数人の親はこの状況に気がつき、我が子を学校から連れ出している。

パトリックはもはや自分の死も、聖エンダの死も、子供達の死すらも恐れなくなってしまったのだ。


母マーガレットは、息子パトリックの行動をどのように思っていたのだろう。

どこまで明瞭に把握していたかは定かではないものの、マーガレットは息子たちが反乱を企てていること、武器や弾薬を聖エンダに貯蔵していること、息子たちが命を投げ出すつもりであることも知っていたようである。

マーガレットと長女マギーは反乱計画に加担してはいないが、積極的に止めることもなかった。

マーガレットはイースターの前日、友人にこう漏らしていたという。

パット(パトリック)はアイルランドのために死ぬつもりなの。ウルフ・トーン*1のように死んでしまうわ。

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P304より

息子を溺愛していたマーガレットが、なぜ無謀な計画を止めなかったのかは分からない。息子の理想に強く共感したのか? 口が出せる状況ではなかったのか? 実際のところは分からないが、結局無謀な計画に加担するパトリックを止めようとしたのは、病弱な次女メアリーだけであった。


そして1916年4月24日、ついに運命の日がやってくる。パトリックら過激派グループがかねてより計画していた反乱が、実行に移される時が来たのである。

イースターの土曜の夜、長男パトリックと次男ウィリアム(彼も兄の理想に共感し反乱に加わった)の出発の時間がくると、マーガレットと長女マギーは聖エンダの門まで付き添い、怪しまれないよう手短に別れの言葉を交わした。

神様はあなた達と共にあります。もしこれが永遠の別れでも、私たちはきっと天国で会えるでしょう。

『Sisters of the Revolutionaries』P72より

反乱が始まって日が経つにつれ、マーガレットは息子たちの安否情報を掴むことが難しくなった。炎に包まれるダブリンの街を、マーガレットはただただ見つめていた。


4月30日の日曜、マーガレットは反乱軍の降伏命令を聞いた。数日の間、彼女はパトリックとウィリアムがどこにいるのか、全く把握することができなかった。

さらに日が経った5月3日、アロイシウス・トラヴァース神父によって知らせがもたらされる。パトリック・ピアースが、トマス・マクドナー、トム・クラークと共に、早朝3時45分に処刑されたという内容であった。

マーガレットは最後の面会すら許されず、たった数分の間に最愛の息子を失ってしまったのである。

その次の日には、次男ウィリアムまでもが処刑された。彼への面会は許されたが、兄弟の遺体が返還されることはなかった。

パトリックとウィリアムは今でも、ダブリンにあるアーバー・ヒル墓地の一画で、処刑された日の姿のまま石灰に包まれて眠っている。

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パトリックは処刑直前、母マーガレットや家族に数通の手紙と詩を残している。彼は母にこれまでの全てを感謝し、きっといつか自分たちのしたことが認められるはずだと綴った。

以下の「A Mother Speaks(母は語る)」という詩では、自身をキリストに例え、彼のように蘇ることを暗示している。

聖母マリア様。あなたはご覧になった、初めての息子が
人々の嘲笑の中で死んでいくのを。
「彼」は人々のために死んだのに。
わたしの初めての息子をあなたの腕の中に受け止めてください。
彼もまた人々のために死んでいったのですから。
そして、わたしが彼の傍に行くまであなたの傍に彼を置いてください。
マリア様、わたしはあなたと悲しみを分かち合ってきました。
だからまもなくわたしはあなたと喜びを分かち合えるでしょう。

『アイルランド建国の英雄たち―1916年の復活祭蜂起を中心に』P96より

基本的に、パトリックとマーガレットは強い親子の絆で結ばれていたとされる。それどころか、パトリックはマーガレットに対し「マザーコンプレックス」と呼ばれるものを抱いていたと言われるほどである。彼は生まれてから死ぬまで母親から精神的に自立したことはなかったし、大人になっても彼女に従順だった。

一方、『Patrick Pearse_The Making of a Revolutionary』の著者は、パトリックが1915年の終わりに書いたであろう自伝で、母親にほとんど言及していない等の理由から、彼らの間には「精神的な溝」があったのではないかと推察している。

様々な説があるものの、パトリックの人生を通しての原動力のひとつは、母親を喜ばせ、感動させたいという願いであったことは確かだろう。彼は処刑の直前、母に心からのメッセージを送っている。

あなたへの愛も、どれほど慕っているのかも、僕には言い表す言葉がありません。最後の瞬間、僕は心の中であなたを呼ぶでしょう。

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P321より

こうしてパトリック・ピアースは、己の果たした役割に満足しながら銃弾を浴びて死んだ。死を目前にしても、彼は最期まで穏やかであったという。

彼らが起こした反乱、いわゆるイースター蜂起は、民間人半数以上を含む485人が命を落とし、2614人が怪我を負い、推定200万ポンドの財産が被害を受ける大惨事となった。

ダブリンの人々は破壊をもたらした反乱軍を罵倒し、石を投げた。

嫌悪から崇拝へ…「英雄の母」として


イースター蜂起の数日後、市民感情に劇的な変化が訪れた。英国の有無を言わさぬ立て続けの処刑に、アイルランド人の反英精神が刺激されたのである。

反乱者たちに石を投げていたはずの市民は、一転して彼らを賞賛した。人々はパトリックの写真を家に飾り、まるで神のごとく崇めるようになった。実際、当時の彼に肩を並べられるのはキリストか、ジョン・F・ケネディ(アイルランド系初のアメリカ大統領)くらいなものであったという。

この現象はアイルランドのみならず、アイルランド移民の多いアメリカでも同様だった。さらにはオランダ、ドイツ、フランス、イギリス、カナダでも彼を賞賛する者たちが現れた。

パトリック・ピアースは予言通り、「アイルランドの救世主」として蘇ったのである。

市民感情のみならず、処刑された指導者たちの家族の生活も一変した。彼らは国家の重要人物となり、生活の全てに視線を注がれるようになった。

指導者の中でも特別神聖視された存在、パトリック・ピアースの生き残りの家族に対し、人々が注ぐ視線は最も熱いものであった。彼らは「英雄の家族」として生き、相応の態度で振舞うことを余儀なくされたのである。


1916年の秋、マーガレットは長女マギーと共に、聖エンダ学校を移転前のダブリン市内で再開させた。移転先の学校は英国軍に占有されており、立ち入ることが出来なかったためである*2。

元々、聖エンダの再開は彼女の希望ではなく、アメリカのアイルランド人団体や、英国の支持団体に押される形で始めたものであった。パトリックの政治思想に共感した北米や英国の人々は、ピアース家に財政援助を申し込むことで、連携を図ろうとしたようだ。

処刑されたトマス・マクドナーの兄弟、ジョセフ・マクドナーが校長に任命され、少数の生徒と共に聖エンダは再始動した…はずであった。

残念ながら、パトリック亡き聖エンダは単なる学び舎にはならなかった。アイルランド独立の英雄マイケル・コリンズは学校内に拠点を構え、マーガレットの知らぬうちに、学校に武器や弾薬を隠した。

アイルランド独立の戦いは、まだ終わっていなかったのである。

慣れぬ学校運営に加えて、マーガレットとマギーは度々の襲撃にも耐えなければならなかった。

英国軍による聖エンダへの日常的な襲撃と破壊、英国の悪名高い傭兵集団「ブラック・アンド・タンズ」による不動産への放火に加え、身内であるはずのアイルランド自由国にも、彼らの家は何度も踏み荒らされた。なお、この件に関してマーガレットはマイケル・コリンズらに強い失望感を示しており、長年支援してきた彼らに「裏切られた」とも感じていたようである。

このような行為は1919年から1921年まで続き、マーガレットとマギーは家族を失った悲しみを癒す間もなく、精神的に深い傷を負った。

それでも、マーガレットは息子の記憶と遺産を継承すべく活動し続けた。聖エンダの運営資金が足りなくなれば、彼女は老体に鞭打ちアメリカまで遠征し、資金集めに奔走した。

シン・フェイン党にも加わり、アイルランド議会ドイル・エアランの初代議員に選出された。マーガレットは、ピアース兄弟を育てた誇り高き母として議会で演説し、気丈に振る舞い続けた。

会議に行ってパットとウィリーのスピーチをしたわ。こういった事柄で私が得意なのはそれだけだもの。

『Remembering Sion』P145より

しかし、息子二人を失った彼女の悲しみが癒されることは決してなかった。

マーガレットは息子たちが最後の食事をした部屋を、紅茶のカップさえそのままに保存した。その部屋だけは、彼らが去った日と何ら変わらぬ景色を保っていた。

夜になれば、マーガレットは兄弟が使っていた部屋で眠った。これは彼女の健康状態が悪化するまで続いたそうである。

聖エンダの元生徒であるデズモンド・ライアンは、マーガレットの深い悲しみをこう思い返している。

時々、マーガレット・ピアースは私にこう話していた。ダブリンの通りを独りで歩いていると、長い悲しみが恐ろしいほどの強さで襲ってくるのだと。「パット、ウィリー! パット、ウィリー!」と叫ぶ彼女を、周りの人々はただ眺めていたのだと。

『Remembering Sion』P145より

1932年には、息子たちの眠るアーバー・ヒル墓地が一般公開されたが、彼女は悲しみのあまり訪問することができなかった。


そして同じ年の1932年4月22日、マーガレットは丹毒に侵され、75歳で亡くなった。

生前、彼女は私的な葬儀を希望していたが、長女マギーが所属していたフィアナ・フォイル党幹部の説得によって、最終的には大々的な葬儀が行われた。

彼女の遺体を安置した聖エンダのチャペルには何千人もの人々が集まり、英雄の母の死を悼んだ。ミサの後、彼女の遺体は市役所に運ばれ、GPOやダブリンの主要な通りを巡った。

この時の写真は多く残っており、彼女がいかにアイルランド人にとって重要な存在であったかを伺い知ることが出来る。

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墓前演説は、ピアース家と生前より交流のあったエイモン・デ・ヴァレラ、のちのアイルランド共和国大統領が行った。お世辞にも評価の高い人物とは言えないデ・ヴァレラだが、マーガレットは、ヴァレラこそが亡き息子の後継者だと最後まで信じていた。

マーガレットの死は多くのメディアで取り上げられ、みな一様に彼女の生きざまを称賛し、その死を悼んだ。

あるジャーナリストは、マーガレットついてこのようにコメントしている。

国のために身を捧げるよう求められた母親はほとんどおらず、ましてそれを不平不満も言わずに果たした者はいなかっただろう。…彼女は穏やかで、優しい親切な女性で、物腰柔らかく、美しい白髪に、美しい顔立ち、若い女性のような色つやをした威厳ある人だった。彼女は輝かしい息子たちに値する母親であった。

『Sisters of the Revolutionaries』P92より

次回は、弟ウィリアムについて紹介する。 


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*1 : 18世紀アイルランドの革命家。

*2 : 1919年に聖エンダは移転先の場所に戻った。


<参考文献>

『Remembering Sion』by Desmond Ryan
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.543886

<参考ページ>
アイルランド国立図書館データベース(http://catalogue.nli.ie/)
アイリッシュ・タイムス参考記事(https://www.irishtimes.com/culture/heritage/fintan-o-toole-ireland-s-education-system-was-rigid-and-violent-1.3774797)
ダブリン市議会(http://www.dublincity.ie/image/libraries/wbtm-13-st-endas)
ピアースミュージアム(http://pearsemuseum.ie/)
https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Pearse
https://en.wikipedia.org/wiki/Clan_na_Gael
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Devoy
https://en.wikisource.org/wiki/A_Mother_Speaks 


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