見出し画像

未来の自分・今の自分

2022年7月のひどい暑さが続く中、いつの間にか体調を崩していた。体は思うように動かず、頭はぼんやりとし、目が覚めても気力は出ない。

回復しなければと焦る気持ちもあったが、そもそも焦っても何かできるほどの活力が残っていないことに、ある朝気がついた。

急に休むわけにいかない自分の仕事以外のことを、とりあえず手放すことにした。なんとか仕事だけはしっかり続けられるように、自分自身に無理をさせず、時間配分に関する計画をより慎重に立てるようにした。

それまでほどたくさんのことを一日にせず、毎日早く家に戻るようになり、人と会話する頻度は下がった。

そんなある日、遠くに入道雲を眺めながら、帰路をとぼとぼと歩いた。夏が終わる気配がそこかしこにあるように感じた。季節感を鮮明に感じるのがずいぶん久しぶりで、もしかしたら子どもの頃以来かもしれない、と思った。かなり長い間、空き地や古い建物のある路地をゆっくり歩いて帰ったりする余裕なんてなかったからかもしれない。

帰宅してから、近くの公園から虫の声が聞こえる中で、扇風機の前に座って考えていた。

思えばこの数年、こんな自分になれたら素晴らしいだろう、という姿を実現するために、多くのことをしたものだ。たくさん本を読み、さまざまな場所に足を運んで、いろいろな人の話を熱心に聞いた。仕事の予定は迷わずすぐに設定し、多忙でも充実した生活が大切だと信じていた。

自分を高めるために精神的に強くなることも必要だろうとも考えた。心を鍛えるために年明けから始めた瞑想も毎日続けていた。

もしかしたら何かを間違えていたかもしれない。

瞑想を続けて気がついたことは、自分は過去や未来ではなく、この瞬間にしか生きていないということだ。僕らは未来を思い描くことも、過去を振り返ることもできる。しかし、何かができるのは今という瞬間だけなのだ。

静かに座っていても、頭の中であれこれ考え出したりするが、どこかでそれに気がついている。どうやら、それが自分を見つめるということらしい。僕には自分自身が見えているだろうか?本当は自分を見ていないのに、どうやってなりたい自分になれるのだろうか?

この数年の僕は、あるべき未来の自分の姿にとらわれて、目の前の「現在」に集中できていなかった。あるいは今という瞬間を大切にする「ていねいさ」に欠けていたのかもしれない。

もちろん、なりたい自分があるのは良いことだ。ただ、そこに向かう道のりで、今ここから見える風景や、足で地面に触れている感覚を、意識していたい。今どんな場所にいるかがわからなければ、正しい方向に進むことはできないからだ。そういったものは、単に頭で考えるだけではなく、感じ取る必要もあるのではないだろうか。

扇風機のスイッチを切ると、虫たちの鳴き声はいつの間にか止んでいて、夜の暗がりの中に雨の音が広がっていた。