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#308 あきらめない

ある日の出来事

ある素材を授業にかけたいと思いながら、1年寝かせてしまっていました。授業にする程の準備もできていない状態です。

僕らは毎年、何年生を担任するか分かりません。今回のチャンスを逃した場合、次にいつ授業できるか分かりません。

そこで、朝から隙間時間を見つけては「あーでもない、こーでもない。」と教材研究。ありがたい空きコマも、教材研究。

どうにか授業できる形にな・・・りませんでした。そんな数時間で授業を作るなんて、あまりに子どもに失礼で、ふざけた態度ですよね。

それでも、授業しました。結果は、子どもたちのおかげでそれっぽい形になりましたが、到底納得できるものではないですし、久しぶりのひどい授業で落ち込みました。

あきらめない

表に出せる状態でないのですから、今回は授業するべきではなかったのかもしれません。でも、やりました。僕は、この素材に可能性を感じているので、「あきらめたくなかった」んだと思います。

計画性のなさなどご指摘が挙がりそうですが、「あきらめない」ことについて考えてみたいと思います。

先ほどの「あきらめたくなった」という気持ちなんですが、どこから湧いてきたのかなあと振り返ると、ハッとしました。
大人になった僕は、あらゆる理由をつけて「あきらめる」ことを繰り返すようになっていました。

「あきらめる」と楽になる

あきらめ方を知ってしまった僕は、その分、楽をするようになっていました。日々の業務で時間的余裕がないからあきらめることもあります。ここでは、時間がないから「あきらめる」と決断しています。

昔の僕は見通しなんかよりも、「やりたいことはやる!やらなければならないことはどうせやるんだから、大丈夫!」と、あきらめることが少なかったと思います。

今は、あきらめことで、思考停止できるので、楽してしまっています

「あきらめない」だけで可能性は広がる

今回、あきらめずに授業したことで、この教材の強みと課題が見えました。おかげで、教材としての可能性が広がりました。同時に、僕自身の可能性も広がりました。必死に考えました。限られた時間の中で、どうやって授業を組み立てるのか、この教材を今後どうみがいていくのか、頭の中はずっと考えっぱなしです。

僕は、子どもたちに「あきらめる」ことを伝える存在にはなりたくないです。

いつも、楽しそうに充実して生きている大人として子どもの前に立ちたいと思っています。そのために、「あきらめる」ことをしない存在でいたいなあと思っています。

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