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「ツンドラに舞う」~シベリアの上空で花火が炸裂する!~短編小説➁
2年前に亡くなった花火師の父が、
「華はないが、線香花火には祈りがあ
るんだ」とつぶやいたことを、長男の
邦彦は今も憶えていた。
その深い意味に気づいたのは、父の戦
友からの電話がきっかけだった。戦友
と父はシベリア抑留の体験者だったの
だ。「戦友が眠るシベリアで、いつか
花火を打ち上げたい」と生前に語って
いた父の思いを果たすために、邦彦は
弟と一緒にシベリア行きを決意する。
〔登場人物〕
🔵藤田邦生(94歳)
元花火師。邦彦の父。2年前に病死。
🔵藤田邦彦(63歳)
花火師。長男。独身。
藤田花火製造所の3代目。
🔵藤田裕二(58歳)
花火師。次男。独身。
🔵藤田邦生の戦友(92歳)
🔵ロシア大使館の日本人スタッフ
完成した三尺玉は、新潟港からロシアまでは海上輸送になるが、ウラジオストク港に着岸した後は、ハバロフスクまでは陸送になる。現地での準備もあり、花火は打ち上げの2、3週間前には到着する予定でいた。
弟の裕二は、日本の関係官庁とロシア大使館に何度も足を運び、打ち上げに関わる手続きについて相談をしていた。花火の輸送や打ち上げ許可に必要な書類を提出したのは、邦彦の計画を聞いてから1ヶ月後だった。
「兄さん、知ってた? 今も埋葬場所が分からない日本兵や民間人が2万1千人もいるんだ。」
申請書を出すために、裕二はシベリア抑留について詳しく調べていた。厚生労働省の資料では、戦後に56万1千人が抑留され、その内死亡が確認されたのは5万5千人だという。弟の言葉を聞きながら、父の戦友が電話で話してくれた〈氷葬〉という言葉を思い浮かべていた。
「春先になると、月に一度は藤田さんと私も含めて班員30人が〈氷葬〉に駆り出されました。春とはいっても、外は氷点下20度です。精神的にも肉体的にも辛い作業でした」
冬になると、寒さや栄養失調、過酷な労働などで病死者が増え、埋葬が滞ってしまう。遺体はツンドラに運ばれ、そのまま放置されたらしい。春が近づく頃には、野晒しの遺体が積み重なって、あちこちに氷の山が出来たという。
「仲間と一緒に、鶴嘴とシャベルを使って氷を砕き、遺体を近くに掘った大きな穴に運びました。丸裸の遺体を傷つけないように作業したので、死者の大半が氷に覆われたままでした。
《氷葬》と呼ぶようになった理由がよく分かりました。戦友達の身体は痩せ細り、まるで鳥の遺骸のようでした。遺体同士がくっ付き、引き剥がすこともありました。作業後には雪原が赤く染まっていたのを憶えています」
埋葬も終わって宿舎に戻る道すがら、皆が声を押し殺して泣いていたという。戦友を無残な死に追い込んだ、ソ連への怒りや悔しさもあったのだろう。更には、戦友の遺体に自らの末路を思い描いたのかもしれない。
「突然、あなたのお父さんが仲間に向かって叫んだのです。『みんな、トウキョウ・ダモイだ。生き抜いて、一緒に日本へ帰ろう!』と。藤田さんの言葉に鼓舞されたのか、いつしか全員が『トウキョウ・ダモイ(帰る)!』と大声で叫んでいました。
後ろにいたソ連兵に小銃で小突かれるまで、仲間の連呼は続きました。戦後、私達の部隊が武装解除され、貨物列車に乗せられた時にも、同じ言葉をソ連の監視兵から言われました。誰もが帰国を信じて疑いませんでした。
しかし、着いたのは凍土が果てしなく続くシベリアでした。藤田さんの言葉に、私も励まされました。辛い時には、いつも心の中で唱えていました」
異国の地で亡くなり、埋葬場所も分からない抑留者の存在に、邦彦は心を痛めた。戦争が終わってから、すでに73年が経過していた。
花火を打ち上げる前に、同胞が眠っているツンドラを訪れ、線香を手向けたいと思った。もしも親父が一緒だったら、どんな言葉をかけるのだろうか。線香花火の火玉を見つめていた、父の後ろ姿が心に浮かんだ。
〔関連資料等〕
〔シベリア収容所を舞台にした映画〕
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