「メッセンジャー」~偶然が必然に変わる時~【エッセイ】
「お願い! あの子の写真を撮ってきて」
同僚の明が指差す方向に、ウインドブレーカーを着た20歳前後の女性が立っていた。
今から42年前、私は神奈川県で行われた相模湖ピクニックランドマラソンに、会社の仲間と共に参加していた。
10キロコースを完走した私達は、スタート地点脇にあった広場で昼食を取っていた。カメラを持参してきたのは、私一人だけだった。
<何で俺なんだよ>と思ったが、試合後の飲み会での奢りを明に約束させ、彼女に近づいていった。
彼女の他に同年代の女性3人が、常設の長いすに座って談笑していた。「あのう、突然済みませんが」
緊張しながら、彼女ではなく3人に向かって声を掛けていた。
「あいつが彼女の写真を撮りたいと…」
そう言いながら後ろを振り返ると、明が他人事のようにニヤニヤしながら手を左右に振っていた。一瞬、女性達の歓声がその場を包み込んだ。彼女だけが訳も分からずにきょとんと立っていた。
「撮ってもらいなさいよ」
長いすに座っていた女の子が、シャッターを押す真似をしながら彼女に話しかけた。私は彼女に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。ファインダーいっぱいに溢れる彼女の笑顔が素敵だった。住所は聞かずに、私はお礼を言ってその場を離れた。
数ヵ月後、私はその会社を辞め転職した。場所は東京の市ヶ谷だった。
ある日、休憩室で紙コップに注がれたコーヒーを飲みながら、ぼんやりと周りを眺めていた。狭いフロアーに、女子社員が数名立ち話をしていた。その中の一人の女性に何故か見覚えがあった。
翌日、休憩室で再び会った彼女に一枚の写真を手渡した。
「もしかしたら、あなたですか?」
怪訝そうな顔をしながら彼女はその写真を手にした。でもすぐに、あのファインダー越しに見えた笑顔の素敵な彼女に変わった。
「あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・す」
呼吸音が目立つ、不明瞭な発声をしていた。彼女は耳が不自由だったのだ。あの日、きょとんとした姿で立っていたのは、私の申し出を理解できなかったからなのだ。
奇跡に近い偶然の出会いに私自身驚いた。その後二人に恋が芽生えたら、まるでドラマのようなのだが、彼女に写真を手渡しただけで終わってしまった。
彼女との出会いから7年後、以前勤めていた会社を訪れる機会があった。マラソン大会に一緒に参加した元同僚に、明の消息を尋ねた。
「う~ん、それが…」
曇った顔つきになった彼は、明が亡くなった事を私に告げた。私が転職してから間も無く、友人と一緒に行ったキャンプ場で命を落としたという。突然起こった鉄砲水が原因だった。
当時、明はまだ20歳になったばかりだった。明の死を知ってから、私は彼女との出会いが偶然ではなく必然のように思えるのだ。住所も聞かずに別れた相手に出会えたのは、奇跡に近いだろう。私は、明の望みを手渡すだけのメッセンジャーだったのかもしれない。