質か量か問題に圧倒的量で立ち向かう理由
ブログやTwitter界で遭遇する、この「質か量か」問題。
私の人生は一貫して量派だった。質でカバーできる人たちは、基本的に頭の良い少数精鋭だと思っている。
最初の記憶は中学のテスト勉強。私はどの教科でも、全ての問題集をくりかえし解きまくった。
毎日のルーティーンを崩してしまうことが不安だった。万が一落ちた時に「あの時やらなかったから」と自分の非を認めたくないから。
そして、毎日やることで「私こんなに頑張ったから大丈夫」と思いたかった。
問題集を解いたノートは1年で5冊も6冊も溜まり、それを受験会場までお守りとして持って行った。ノートをパラパラめくり、文字でびっしり埋め尽くされている黒い紙面を眺めると「私は大丈夫」と思えた。
今考えるとちょっと怖い。
大学受験時も、質より量で攻めた。この時は過去問、学校の問題集、塾のテキスト、参考書を解きまくり、赤本は志望校10年分、同レベルのライバル校も出ているだけ全て解いた。
この赤本を何年分解くか問題は、質と量問題と同じく見解が分かれる。
・同じ問題は二度と出ないので、3年分もやれば傾向をつかめる
・同じような問題が出た場合、過去問をやっていた者だけが閃くこともある。出来るだけ多くの過去問に触れた方が良い
私は後者をとった。今考えると、全く効率的ではないし、文法や単語さえきちんと覚えていたら、応用で全ての問題は解けるようになっている。
私は自分の応用力に自信がないのだ。
応用力がないので、作業量でカバーしようとする。作業しながら、体験したことからしか、学ぶことができない。
ブログもTwitterも同じだった。最初にマネタイズしたアメブロは毎日更新だった。毎日手を動かすことで少しずつ少しずつ「昨日より工夫した部分」を積み上げて、自分の中のベストな「型」を作った。
「効率的な更新の仕方」という記事は山ほど落ちてそうなので、きっと器用な人はそれを読むだけ自分の作業を改善できる。
でも、私は応用力が乏しい。頭ではわかっていても、それをうまく自分の作業に落とし込めない。
考えられないので、考えなくてもできるようになるまで体に覚えさせる。
野球の素振りと同じだ。
量より質派では、「ゴミ記事をいくら量産しても何の価値もない」という意見がある。ごもっともなんだけど、私は自分が出した記事全てが愛おしいし、どの記事を見ても、それを書いた時の思いが蘇ってくる。
ブログは人に読まれてなんぼで、SEO上位表示されてなんぼで、読者の悩みを解決しないといけなくて、稼げない記事はゴミ。
一見正しいかもしれないが、完璧なもの以外はゴミなのか。不出来なもの一切を排除するゴミ記事という表現は、なんだかゾッとする。
ブログを書く目的は人それぞれだし、ノウハウも大事。なんだけど、ゴミ記事と表現する人に対しては、ちょっと壁つくちゃうかなーと思ってしまう、今日この頃。
というわけで、「型」を体得するまでは量は必須だが、その後の伸ばす戦略は人それぞれだと思う。
毎日更新される安心感と生活に寄り添う記事が得意な場合は量で行けばよいし、超ウルトラスペシャルパーフェクトな質を提供できるんだったら、質派でいけば良いと思う。
まだまだオチをまとめるのが下手な私は、そんなわけけで毎日noteを更新しています。
今日もコツコツ頑張りましょう。