短歌にみる一期一会の奇跡
執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺
令和二年四月、山梨県は桃の花が満開である。桃は、その前後に咲く梅や桜とまた異なる美しさがある。桜は、その花弁に光が透けて、自ら輝くというよりは控えめに咲いている。一方で、桃の花は、光をうけてその鮮やかないろを発している。それは決して派手ではなく、清明なる気品をそなえている。樹姿は桜よりも低く末広がりである。花姿は天を向き、天真爛漫、その枝先まで、未来に果実をならす力を宿しているようである。
このよき日に、私は桃の花に感化され、一首を詠んだ。生きていれば不安もあるだろう。ジョバンニ(宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』の主人公)が銀河を見上げ、ほんとうの幸いとはなんだろうと問うたように、私もまた麗らかな山国の盆地を見渡しながらそのようなことを考えた。その瞬間、一羽の雲雀が地に落ちた。そして、一面に広がる花園からまた翔び上がったかのようにみえた。
桃の花はまるで、私をやさしく鼓舞するかのように春風にゆられていた。
地に近く天のかたさす桃の花実るちからの満ち溢れたり
短歌や俳句等の短詩型文学は、省略を利かせて、読者に自由な想像を促す。その余白に描かれることは人の数もしくはそれ以上あるだろう。但し、詠み手の心は揺るぎない柱である。それは読者に、情熱、覚悟、喜び、希望、不安、悲哀、諦念、様々な感情を呼び覚ます。紆余曲折、情緒の次元を超えて、人がほんとうの幸いを感得するとき、命は清らかに、人生は豊かなものとなるだろう。
今回は、大正、昭和、平成の短歌をいくつか紹介したい。歌の大意と解説は専門家ではない私の主観であるため、参考程度にお読みくだされば幸いである。文学が皆様のほんとうの幸いのためになると確信している。
空に相寄り二つはつかに触れ合へる雲には雲の声あるごとし
(阿部十三・平成二年)
大意:空に相寄る二つ、ほんのわずかに触れ合う雲にはその雲の声があるようだ。
解説:空を見上げるとふたつの雲が僅かにふれあい、挨拶をしたようにみえてくる。雲のゆっくりとした動きは、たとえば新宿駅の雑踏とは対極に位置するようである。都会人であれば毎日、人混みに紛れるような生活だと思うが、その物質的な距離とは異なり、心の距離は遠いのかもしれない。都会に生きる以上しかたのないことである。
それでは、本歌のような青空の世界は良いことばかりであるのだろうか。本歌からは僅かな「憂い」も漂っているようである。空という大海に浮かぶ雲は孤独を感じているのかもしれない。だからこそ、単なる自然現象のひとつではなく、ふたつの雲の出会いは奇跡であり、詩になり得たのである。自然科学は自然に普遍性をみるが、文学は自然に一期一会の奇跡をみるのである。
パスカルが、『人間は葦』だと言った、
破れ葦のこの肉体は、
闘う葦だ。
(赤木健介・昭和十七年)
大意:パスカルは『人間は葦』だと言った。破れた葦のこの肉体は、闘う葦だ。
解説:パスカルは十七世紀フランスの哲学者である。数学、物理、思想と幅広く研究を行った。専門家の向井毬夫氏によれば、「本歌は軍国主義下の時代に対峙する自由へのたたかいという意志の込められた箴言のような厳しさがある」と評している。パスカルは『パンセ』のなかで「人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎にすぎない、だがそれは考える葦である」と述べている。
昭和十七年は第二次世界大戦中であり、同年末には大本営がガダルカナル島の撤退を決定した狂乱怒涛のときである。戦争を体験していない私に語る資格はないかもしれないが、その時代を清く正しく生きぬかんとする氏の気高き意志に最大限の敬意を表したい。
人間は考える葦であり、また破れても倒れない不屈の精神を秘めている。いつの時代においても、過ちを正す精神は継承され続けるのである。本歌を通じて、また令和の我々が自覚するときなのかもしれない。
湧き上がりあるいは沈みオーロラの赤光緑光闇に音なし
(秋葉四郎・平成元年)
大意:湧き上がりまた沈みするオーロラの赤い光、緑の光。その闇に音はない。
解説:オーロラは太陽と惑星の織りなす美である。太陽風と地磁気、分子の物質的な共演であるが、その形而下にとどまらず形而上の美まで昇華された歌である。虚無の闇より赤や緑の光が湧き上がり、また沈む景はこの世のものとは思えない動的な迫力があるだろう。その感動の刹那、はたと音がないことに気付く。本歌の要諦はこの気付きにある。
人は意識下において、五感のなかでも視覚に頼る割合は大きい。オーロラの華やかな「動き」には、無意識に動的な音を連想してしまうが、現実にはすべてが吸い込まれんばかりの無音の闇が広がっているのである。「動」と「静」の織りなす世界は、読者に様々な感情を促すだろう。
私は実際にオーロラをみたことはない。実際にみた人から聞く限りでは、写真や映像ではその迫力が伝わらないそうである。文字表現が映像に勝ることもある。光のカーテンが眼前に落ちては消えるというような体験のようだ。秋葉四郎氏の正確な客観描写は、まさにそれを見た人の生の体験である。
昆布の葉の広葉にのりてゆらヽヽにとゆれかくゆれゆらるヽ鷗
(石槫千亦・大正十年)
大意:昆布の葉のなかの広い葉にのり、ゆらゆらと揺れ、このように揺れ揺られる鷗(かもめ)よ。
解説:「ゆら」「ゆれ」の音律と実景が、違和感なく溶け合っている。昆布の葉に鷗が乗るという可愛げのある「おかしさ」がある。昆布も鷗も、波に身を任せており、荒々しい極寒の海における一時の安らぎを感じさせる。昆布の黒と、鷗の白という色の対比も美しい。昆布のゆれる極寒の海では黒や群青の生命の気息はなかなか感じられない世界だろう。また、適当な足場がなくとも、昆布があればその上にという生命の逞しさを感じ取ることもできる。かくして、一読呑気な歌にみえて、昆布や鷗を通して生類の強く気高い精神性を感じられはしないだろうか。
羽ばたきの去りしおどろきの空間よただに虚像の鳩らちりばめ
(高安国世・昭和四十三年)
大意:羽ばたきの音が去った瞬間、私の驚きとともに空間がひろがる。そこには、ただ虚像の鳩が散りばめられていただけであった。
解説:景としては、呆然として顔を上げ、虚空をみつめている作者のみである。「何もない」ことを詠むことで、その「存在」がより強く立ち現われてくるのである。
この技術は平安時代の歌人・紀貫之が得意としており、たとえば『さくら花ちりぬる風の名残には水なき空に浪ぞたちける(古今和歌集)』という歌がある。桜を散らせた風の名残には、もはや桜の花弁はなく(去ったあとに残される空間のみである)、空にも当然、水はないのであるが、「ない」ことが言語化されることで、かえって、なにもない空に「花弁の波」が鮮明に立ち現われてくるのである。
話を本歌に戻すと、何もない空間に確かに鳩がいるのである。そして、「空間」「虚像」という文学的ではない表現を詠んでいるのはなぜであろうか。考えてみるに、科学的なこの無機質な響きは、氏の無に対する気持ちを詠み込むために最適ではないだろうか。仏教において「無」の探求は長年続けられている。「無」は情緒的には、冷たく無機質な固い印象をもつ。血が通っているという点の対極に位置している概念のように思えてならない。氏の無への飽くなき探究心や死生観が真に迫ってくるようである。
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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。