「瞑想」という生き方
これまで数回、"rDzogs-chen Vipassana Meditation" 「ゾクチェンヴィパッサナ瞑想」に触れてきましたが、ここでは、この言葉の特別な使い方をしております。
はるか昔、職場の後輩K.Satosiくんと気が合い、ずいぶんたくさん話し合い、そして、ずいぶんたくさんのことを教えてもらいました。
その後、私よりも、かなり年下のSatosiくんは、突然ほんとうに文字どおりとつぜん他界してしまいました。
基本、ヴィパッサナ瞑想を彼から学んだのですが、彼との話は、それに限らず、チベット仏教、古代ギリシャ哲学、新プラトン哲学、中世ヨーロッパ哲学、インド思想、ヒンズー、ミャンマーの小乗仏教、スピリチュアル全般、ブラヴァッキ、数学、物理学、最先端技術、天文学、文学、音楽・・天使と、幅広いものでした。
ここで述べてきた"rDzogs-chen Vipassana Meditation"も、そんな中からたどり着いたイメージなのですが、どちらかと言うと、私の方が熱心でした。彼は、もっと基本に忠実で、不断の「気づき」と、その不断の見返しを実行していました。
どちらにしても、日常生活こそ、"rDzogs-chen Vipassana Meditation"の現場であるということは間違いないところでしょう。
当然、彼は、チベット仏教の「ゾクチェン」も熟知していたのでしょうが、だからこそ、知識ではなく、それを実際の日常生活で実践することにこそ、関心があったのだと思います。
ですので、ここでは、"rDzogs-chen Vipassana Meditation"は、ふたりの切磋琢磨で熟成された、あるいは、熟成されつつある「瞑想」=生き方であると、ご理解くださいませ。
「瞑想」というのは、単に、ある分野の、あるひとつの項目ではなく、「生き方」そのものであるとの理解から出発します。
K.Satosiは、私にとって、ほんもののグルそのひとです。
31.Aug.24 Paphos/ Cyprus