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「メタフィジカ」/”Meta-physica” 「 メタ物理」の可能性?!

「メタフィジカ」/”Meta-physica” → メタ物理 : つまり、「物理」そのものについて思索すると解すると、これはphilo-sophia の仕事でしょう(「哲学」ではなく)。

“metaphysics” 「形而上学」(これも「語訳」と言いたいとこです)については、カルナップ、論理実証主義、分析哲学、(ヴィトゲンシュタイン: 外したいところです)、最近では、マルクス・ガブリエルなどを引き合いに出すまでもなく、過小評価され過ぎだ(それどころか、完全否定されている!)と思いますが、「物理」そのものについて思索することと解すると、それ程否定されるべきものではないかと思います。

例えば、純粋数学が、「事実(fact:井上忠によると「為されたこと、作された結果」)」に拘束されずに、人間理性・論理の極限への挑戦と理解すると、“metaphysics” (「形而上学」という語訳の訳語を使わざるをえませんが)も、その純粋数学と同様と言うことができないでしょうか。つまり、「事実(fact:井上忠「為されたこと、作された結果」)」に拘束されずに、人間理性・論理の極限への挑戦と理解しうるのではないでしょうか。両者とも、言語の限界、言語の地平を言語で超越せんとする「挑戦」であると!

あるいは、純粋数学はいいど、“metaphysics” (「形而上学」)は拒絶するとするのならば、その理由が分かりません!

現代の“metaphysics” (「形而上学」)として、「メタフィジカ」/”Meta-physica” つまり「 メタ物理」ということが可能なのではないでしょうか。

その端緒ともいえるパルメニデスの「自然について」のphilo-sophia(「哲学」ではなく)をみれば、物理学の最先端とも言えるかもしれない「量子力学」と雖も、パルメニデスの掌の上を越えるものではないのでしょう。

先端科学技術の駆使する高度の数学を反証にすることはできません。孫悟空の如意棒よろしく振り回される「数学」も所詮「言語」というツールに過ぎないのですから。

したがって、「言語」こそが問題の核心と言えそうです。
20.Nov.24  あまりにもあいまいな-レジリエンシ


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