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『性』=『イメージ』 エッセイゆらぎ(3)
(小説)ゆらぎ- あまりにもあいまいな - もうひとつの「三池争議」-前/後編全文より
9. 炭住の共同浴場
「われわれはただそこに自由な開かれた世界の反映を見るだけなのだ、
しかもわれわれ自身の影でうすぐらくなってゑる反映を。」
リルケ「第八の悲歌」
巧は、ある「事件」(巧の「実存」を根本的に揺らがしたPTSD)故「早熟」でもあった。
炭住では共同浴場/ 銭湯だった。
入れ墨の男も少なからず目にした。
多分1-3歳頃だったので、母親に連れられて女風呂に入った。
普通なら、何の不思議もない光景なのだろうが、巧は少し違った。森の中で見た光景のせいもあるのかもしれないが、「性」に敏感だった。
母親に連れられて入った女風呂で見たシーンが目に焼き付いている。
未だ二十歳そこそこの母親の白い肌・・豊かな乳房・・
近所の女学生たちの白い裸体・・湯に濡れた艶やかな肌と、そんな肌に張り付いた髪の毛・えり足と、うぶ毛と、膨らみかけた胸・乳首・・・
勿論、大人の男が持つであろう、欲情に満ちた感情とは全く違った「何か」・・である。かと言って、同世代の幼児の男の子が持つかもしれない感情とも全く違っていた。
しかし、確実に『女』性という、自分とは全く違った『性』故の感情である。
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『性』とは『イメージ』なのかもしれないと思います。
この共同浴場の体験は、日常生活故、毎日だったのでしょう。毎日、次第に熟成されていった『イメージ』なのでしょうか?
ソクラテス以前の哲学者たちが言うように、人間は所詮『片割れ』に過ぎないのでしょう。だから、他者としての他方の『片割れ』に惹かれ、「美」のイデアとして理想化し、恋い焦がれるようになるのかもしれません。
そうだとしても、1-3歳頃に、この「美」のイデアに「触れる」というのは、少し早すぎだったのかもしれません。人間の成熟過程には、順序というものがあり、時が満ちている必要があるのかと思いますが、そのバランスが崩れ、『イメージ』を早く持ち過ぎるのは、その人間にとって、一生を左右する不完全な基層となってしまう気がします。自己と他者の関係に、いつも、違和感を感じてしまうのは、このせいなのかもしれません。
これは、「異性」ということでしょうか。それとも、男から見た「女性」に限ったことなのでしょうか。
パルメニデスの歌・詩に登場するのも、「女神ディケ」であって、けっして「ゼウス」ではありません。これは、必然なのでしょうか。
「恋」と呼べる程の感情になるには、やはり早すぎる「イメージ」だったのでしょう。これが、よかったのか、わるかったのか、分かりません。
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おのこにおみな[雄には雌を]
*媾(こう)いを せよとて送り、
反対(さかしま)に また
おのこをば[雄をして]
おみなへと[雌のもと]
遣わしたまう
女神(かみ)なれば。
(*媾(こう) 男女がまじわる、交合する)
パルメニデス断片12 5a 6 5b (井上忠 訳)
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20.Feb.2025 エッセイゆらぎ