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ポリコレと配慮とアタリマエと。

ポリコレと配慮とアタリマエと。

 「ポリコレに配慮されていて、とても良かったです」
という映画の感想を、受信した。

 ある人気シリーズの新しい映画。主人公は白人男性、そのバディが黒人の方。彼らを取り巻く周囲の人間は、老いも若きも人種も超えてそれぞれ存在していて、それと、同性愛の表現も削られることなく劇中で展開されていた──らしい。

 それ自体は別段なんてことはない。引っかかるのは、それらを観て出てきた言葉が「ポリコレに配慮されていて、とても良かった」ということで。
 配慮すること自体は悪いことでも何でもない。では、劇中の表現のどれが「配慮」にあたるのだろうか。どう配慮してるのだろうか。

 感想の主はこうも言っていた。
「同性愛の表現があるので、ある国では上映禁止になっている。どのような感じなのか危惧しながら観に行ったが、劇中では当たり前のように──まあ、同性愛は当たり前のことなんですけど、きちんと同性のパートナーがいる、ということが描かれていた」

 これも別段、悪いことでも何でもない。「当たり前」だ。同性同士での縁組みとでも言おうか。アタリマエだ。
 今や79億人もいるっていう人間種だ──もうすぐ80億人になるっていう数字でビビった──そもそもある一人の人間が、またとある人間に惹かれたとして、それがどんな性別なのか? なんて、それはどのくらい重要なことなのだろう?

 身体と、心とを持ってしまっているために、たまにそのふたつの齟齬をもって生まれてくる人間種なんて、いくらいてもおかしくない。実際いっぱいいる!

  *

 でもな〜んか引っかかったんだよな。「当たり前」と、「配慮がされていて良かった」というコトバが。
 配慮はさ、まぁほら……されてないよりはしてくれてた方が、チョットだけ気持ちいいってのはわかる。言い換えると「サービス」に近しいものも感じる。でも、感想の主の言う「配慮」は「サービス」ではなく「忖度」に近いんじゃないか。あくまで "どっちかというと" ね。

 「忖度」なんて言う原因は筆者の捻じ曲がった性格にある。以下はひねくれた独り言をダラダラと書いていく。

  *

 筆者は自称ノンバイナリーの、Xジェンダーで、男女どちらでもない不定性で、性別は関係なく好きになった人が好き、だと思っている。男女どちらか、というのもさして気にはしない。
 ただ、できれば恋愛なんて面倒ごとはマジでしたくない。自分に降りかかる恋愛は全否定したい。さらに恋愛表現も描きたくないしできれば摂取したくない。

 というややこしい拗らせセクシャルマイノリティのつもりでいるんだけど、じゃあそこで、「ノンバイナリー」の属性も持つキャラクターが、とある物語に出てきたとしてそれを己は「配慮」と受け取るのか否か。

 以前、MARVELの「エターナルズ」という映画を観た。原作がどうなっているのか全くわからないでの感想になるけど、「正直ポリコレ忖度祭りだなこれ……そしてベースにあるのは異性愛で、男女のキスシーンや性交渉の表現もある。しかも長すぎて嫌だなあ!」だった。

 配慮だなんだ──っていうのはさ、配給する会社の抱える問題も絡んでくるから本当に答えを見つけるのが難しすぎるし、ただの鑑賞者である己なんぞに「あの表現はポリコレ忖度(≒配慮)なのかなぁ?」と考えたところで答えなんか手に入れられるわけがないんだわ。ええ。結局は、鑑賞して、物語を受け取った上で自分がどう解釈するか……なんだよなぁ。

 ──ああ、身も蓋もない!

 で、感想の主のコトバは、独り言ではなく複数人に向けられたコトバなので、わざわざ「同性愛、当たり前なんですけどね」という補足をしてくれたのかもしれない。私はこう考えてるんですよ、という補足を、何も知らない人々に向けて。同じく、「配慮されていて良い作品だった」というのも、そう伝えればまぁまぁ「そういう配慮のなされたいい映画だった」と理解してくれるだろう! という、それこそ「配慮」だったかもしれない。

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 配慮ってなんだろうなぁ。つい「ポリコレ忖度」って言っちゃったけど、悪意が少し感じられるよな。これは、う〜ん……わざとなんですけども。少しの悪意を込めております。

 これから、この先の未来では、配慮されてない作品はどうなってしまうんだろう。と、常々考えてしまっている。配慮されてない……雑に言うと「マイノリティが出てこない作品」は、どういう目で見られるんだろう。
 己は、恋愛が嫌だし嫌いだけど、恋愛ものっていうジャンルが滅んでほしいとは思わない。それを求める人たちが沢山いるはずだし、それによって救われる人たちも必ず存在する。だから、さまざまなジャンルの物語が、この世界には存在するべきだし、ヘタな規制もしてくれるなよと、思っている。

 今までは表に出て来にくかった同性愛表現と同性愛者、無性愛者など。そして、「そういう人々がいるんだよ」とか「虐げられてきたんだよ」とか「そろそろ人権をください」という訴えがぽろぽろと出てきている現在、 "そういう表現" は増えるだろうし増えて欲しい。

 「そういうの苦手だから嫌だなあ」
 うんうん、そうだよね。苦手なものが増えるのは怖いよね。不安だよね。でも実は、きみには今まで見えてなかっただけで、同性愛者も同性愛表現もたくさん存在しているのよ。きみたちのような「普通の人間」のふりを仕方なくしながら、虐げられない様に今も隣で暮らしている。

 同じようにただ隣で暮らしている。それだけ。
 異性愛者さんたちは、「今好きな人がいるんだよね〜」という話になっても、対象の性別を何も気にせずに話せるワケ。でも現在になっても同性愛者や無性愛者となると「好きな人の性別」が同じなだけで、「好きな人がいるんだ」と言い出すことすらできなかったりする。

 いやまぁ。気味が悪いってのも、仕方ない話だよなぁ。まだその存在に慣れてないんだもの。未知のものだもの。わからないものはこわいよ。俺だってこわいよ。

 あ……っと、何の話してるんだっけ。脱線して来てる気がする。

 好きになった人が実は精巧なアンドロイドだった──なんてことになったらどうすんだろうな。「普通の人(≒異性愛者・ヘテロセクュアル)」は。いや俺らもどうしよう案件じゃん。好きになった人が精巧なアンドロイドだったら。

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 友人だった "よき隣人" が、「実はアンドロイド(=自分とは異質の属性を持った存在)なんだ」ってカミングアウトしてきたら、どう反応するか。そこで差が出るのかな。うんうん。

「へえ〜、そうだったんだ。そんで、どうしたの?」
 くらいの、ユルい反応がフツーにできるような世の中に早くなってくれよ、って話でした。たぶん。

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赤嶺 臣
死ぬ前に残しておこうかな、くらいのものを書き綴っています。 サポート? やめておいた方がいいよ。