猫背で小声 season2 | 第21話 | 生きづらい脳味噌
生きてりゃつらいことは必ずと言っていい程ある。
つらいよ、つらいよ、と言いながら生きてくのが人間なんだろうと思う。
ぼくはよくひとから「生きづらさを感じませんか?と」聞かれることがある。もちろん無い訳ではないが、健常者に比べると、生きづらさという「事故物件」に住み続けていることになる。
まずこれまで生きてきて統合失調症という病気から逃れられることはなかった。中学生の時に発症して、生きること自体に違和感を感じながら生きてきた。今日も明日も昨日もその昔も統合失調症。
次に離人感。
目の前にモヤがかかったような症状で、現実感があまりない。自分から見えているものが、画質の悪い録画映像のようで、特にストレスが溜まる場所に行ったり、場面に出くわすと、この症状が出る。でもこの症状が出たら、今はストレスを感じているんだな、という客観視ができるようになってきた。
次にメニエール病。
めまいやふらつき、耳の聞こえが悪い、といった症状が主なのだが、ぼくの場合は耳の「こもり」が酷く、こりゃまたストレスの感じる場所に行くと、確実に耳の聞こえが悪くなる。視野、聴力が鈍り、自分の中では「感覚異常」と呼んでいる。
感覚異常のほかに、自分の考えていることが頭の中で「声」として聞こえてしまう症状も抱えている。この症状は統合失調症に多く、発症してからずーっとあったので、この声が聞こえることがひととして当たり前なんだなと思い過ごしてきた。
でも、聞いてみると、自分の考えていることなど頭の中では聞こえないし、聞こえていることが普通の状態ではないらしいのだ。
驚くわけでもなく「ふーんそうなんだ」と言う自分の声が、頭の中に響く。すでに脳と身体に馴染んでいる。
そんな日々を過ごしてきて気づくこともある。
ぼくは多分、人より語彙がある方だと思う。
喋ることはさっぱり苦手だけれど、文章を書く上での語彙は多い方だと感じる。自分の頭の中で言葉を考えて、会話をするように言葉を選ぶ。そんなことを数多く行ってきたため、人より言葉が浮かぶようにもなったのかもしれない。
この言葉、ああして、こうして、こうやって、という脳内。
正直、病気はクソくらえだけどこの症状がこの連載にも活かされているのだ。
こんな数多くの症状を抱えながらも働いているというのは客観的に見ても自分を褒めるべきことだと思う。こんなガラクタな状況で9時から17時30分まで、真面目な顔をして会社に尽くしているのだから。
統合失調症になりたての頃は、寝ていても具合が悪いし、目覚めても具合が悪いし、絶望しかなかった。薬を飲んでも症状が改善しない。しかし希望は捨てなかった。希望を捨てないと言っても、何をするわけでもなく、薬を飲んできちんと寝る。そんな日々を諦めずに繰り返してきた。
いつになれば良くなる、という明確な答えは誰からももらえないが、ある日、自分の目線の先に、別の世界への誘いのような釣り糸が垂れ下がってくる日がきっと来る。
それをパクッといくか、いかないか。
あいかわらず諸々の症状を抱える「自分」という事故物件に暮らし、仲良くお友達関係も築いているけれど、実は「生きづらさ」ってひとから言われて気づくものなのかもしれない。症状という名のお友達は、ぼくにとっては当たり前で、もし消え去ったとしたら、今のような多少ひねくれた文章も書けなくなるのかなと想像する。
「近藤さんって、生きづらいでしょ」
と言われると少し落ち込むけれど、逆に「てめえらにはないのかい」という声が頭の中で響く。口には出せない。
そんなぼくでも、最近は「生きづらさを抱えるひとたちの声になりたい」と、将来の姿が見えてきた。具体的に何をするかはまだわからんのだが、生きづらさっていう、なかなか経験できない、したくもないじぶんがここにいるのだがら、ぼくはこの状態、状況を、未熟ながらも人の助けを借りながらでも、生き続けていこうと思う。
こんなことを何回も頭の中で繰り返しながら、今回、文章で表現してみた。
ぼくの脳味噌、ご苦労様です。
いいダシ出てます。この人生。
\ 近藤さんが新しくラジオをスタートしました /
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