私の中の辞書から「大嫌い」という言葉をなくす
「1日に何回好きっていうの?」と聞かれた。
ことあるごとに、これ好き!とか大好きなの〜!とか言っているらしい。
私の中の辞書には「大嫌い」という言葉がない。
好きなものと大好きなものをいつも選択して、選んで生きてきたから。
と言いたいところだが、多分違う。
相手に自分を思い出してもらう場面を増やしたいからだ。
アニメ「輪るピングドラム」を見てから、生存戦略、という言葉が大好きになった。
ことあるごとに、この言葉に逃げている部分も含めてね。
私が大学生の時にキャバクラだのパパ活だの色々なことに手を染め上げ、挙句の果てに、待てば誰かに助けてもらえるなんて思っている人が大嫌い!自分から逃げなくちゃ死ぬっていう窮地に追い込まれたことなんてないくせに!
と逆ギレしがちだった私に、
それは生存戦略だよ、って言ってくれた人がいる。
出会い系で出会った男のTwitterアカウントを見つけ出し、そこにパパ活女子なんて死ねばいいのに、そんな女をズタズタにしたい、と書かれており、ふーんと思いそっと画面を閉じた日、モテない男って寂しいなあと思いつつ、いや私もこうやってなんとなく寂しさを埋めてるから同等か、と思いながら、自分なんて存在はこの世の男から憚られる存在であり、煙たがられ続けるんだ、
同世代男子なんてそんなもんだし、いや色々あるよね、って同情される方が嫌だから、まぁマシかあ〜ってね。
そんな中で、生存戦略だよ、って言葉は私の中にスッと入ってきた。
その人におすすめしてもらったアニメがこのアニメ。
ジョバンニとカムパネラの話。宮澤賢治の銀河鉄道の夜を大きくモチーフにしていて、誰かのために生きるということや運命とは、ってことを問いかけ続けてくる。このアニメのおかげで私は今宮澤賢治の銀河鉄道の夜を買って、改めて読み直している。
本題に戻って、誰かに思い出してもらうということがそんなに大事なのか。
思い出してもらう、っていうより日常生活において私という存在を思い出してくれることがひとつでも多くあって欲しいと思う。
私ばっかりみんなを思い出すのはずるいからね。
忘れないでね。っていつも思っている。忘れないで欲しい。
日常生活のいろんな場面において、私を思い出して欲しい。忘れないで欲しい。
例えばスーパーに行ったら、お菓子でもフルーツでも飲み物でも、アイスでも、パンでも野菜でも、
私がこれを好きっていってたなあって思い出して欲しい。それだけだ。
誰かの記憶に残れればそれだけで嬉しい。
でも、たまにやりすぎてよく分かんないことになる。
好き、大好き、って軽い気持ちで発言するから、たまに自分でもよくわからなくなる。
私のほんとうに好きなものって何なんだろう?
本当にそれを知れる日は来なくていいような、なんとなくああ好きだなあってふわふわな気持ちだけで、生きていきたい気がするけど、それだけじゃダメだっていう時が来てしまうのかなあ。
直感的に嫌なものを排除して生きていくだけじゃ難しくなることがくるのかな。
いや、少なくとも大好きなものと大好きな人を選んで生活しているから、嫌いなものはない。
好きと大好きで自分が生きやすい世界をつくる。
そして、散りばめた好きと大好きで自分が満足できるならそれで十分か。
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