”ひとりパーティー開け”に対する考察。
寒ぅぅぅぅぅぅ!!!。どうも、コーシです。
はじめに。
土曜日、午後から所要があったため、午前中にここぞとばかりに休む。今日から急に寒くなるらしいから、今のうちに温もりを充電しておきたいところ。
朝昼ごはんを食べ、母が買っておいてくれたトルティーヤお菓子「ドンタコス」を食べようとする。これ、美味しいんだよな。
我が家のお菓子コーナーから「ドンタコス」を引っ張り出し、自室へ持っていく。東京03のコント動画を流し、「ドンタコス」を開封する。このチリソースの匂い。たまらない。
私はタコスが好きだ。Netflixにて配信されている『タコスのすべて』ぜひ見てほしい。あれはNetflixオリジナルが生んだ奇跡の作品と言える。
「ドンタコス」をつまむ。食べる。美味い。そしてその時気がついた。
私はひとりなのに「ドンタコス」をパーティー開けしていた。
これは不思議な現象である。本当に不思議だ。
一人で開けるのなら、もし食べきれなかった時のことを考えて、袋の上口を開くのが筋だ。なのに私は今、「ドンタコス」をひとりでパーティー開けした。
この興味深い事象に対し、考察し始める。
なぜ、私は「ドンタコス」をパーティー開けしてしまったのか。
本稿では、「ドンタコス」をパーティー開けしてしまった青年の心情を考察することにより、青年にとって「ドンタコス」がどのようん存在なのかを考察していく。
考察その1。「決意の表れ」説。
中学校3年生くらいから適度にダイエットをし始め、まぁ成功した私。小中学校の頃にの知り合いに会うと驚かれたりする。
その頃のクセか、お菓子を丸ごと一袋食すことに対してどこか罪悪感を感じてしまう。正直くだらない罪悪感である。食べたければ食べれば良いのに。その分運動すれば良いのに。
そんな罪悪感を感じている自分に嫌気がさし、「もう後退りはしない!」とパーティー開けをし、「ドンタコス」を一袋食べ切る決意をしたのかもしれない。
考察その2。「寂しさがそうさせた」説。
近頃はさらに冷え込み、人肌恋しい季節となっている。
普段から一人でいることを好む性格ではあるが、この時期は人といる時間に大きな温もりを感じる。人の温もりを感じるといえば、パーティーだ。
そもそもそこまでパーティーの経験はないが、そういった大人数の集まりは稀に楽しい時は楽しい。よく知る友人と集まる場なんて温もりしかない。
そんなパーティーとは程遠い現状に対して若干の寂しさを覚え、パーティー明けによるなけなしの温もりを求めたのではないか。
しかしそもそも今パーティーに誘われても行かないし、忘年会の予定も断りまくっているのでこの考察は妥当とは考えづらい。
考察その3。「俺にとっては「ドンタコス」がパーティー」説。
私のタコス愛は底を知らない。「タコス」と名の付くものには体が勝手に反応してしまう。事実、今回ドンタコスを目の前にした時の私の胸の高鳴りは尋常ではなかった。
もうもはや、「ドンタコスを食す」という行為自体が、無意識のうちに私の中ではパーティーに値するイベントであった可能性から目を逸らすことはできない。
そうとなれば、一人でも複数でも関係ないのだ。パーティーはパーティーだ。その強き想いから、体が勝手にパーティー明けをしてしまった可能性がある。
結論。
もうこれは「俺にとっては「ドンタコス」がパーティー」説が1番有力だな。間違いなくそのくらいのテンション感でドンタコスと向き合っていたことは認めざるを得ない。
そんなことを考えていたら東京03のコントもオチていたし、ドンタコスも完食していた。時間もちょうどよく、準備し始めるべき時間。
私はこーゆー時間の使い方をする人間だ。
とにかく皆、「ドンタコス」を一度食べてみて欲しい。
フクダコーシ しそとツナ缶。
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