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ごめんなさい持ってきてる?

わたしはツイッターをほとんど使わない人間なのだが、今日はそんなツイッターで読んだ素敵なマンガの話をしたい。


その前に。
"ほとんど"という言葉を使うと、読んだ人は一体どのくらいまでを"ほとんど"と捉えるのだろうか。"ほとんど"の中身は、人によってかなり異なる。

ある人にとっては毎日はつぶやかないけれど3日に一度はつぶやく、がほとんどで、またある人にとってはもっぱら見る専門、なのがほとんどかもしれない。
もしかすると、毎日3度はつぶやくことが"ほとんど"になる人もいるのだろうし、いいねを押す押さないで判断する人もいるかもしれない。

先程わたしが用いた"ほとんど"は、基本的に見る専門で、自分から何かをつぶやくことはほとんどなく、いいなとか面白いなと思ったツイートにはいいねを押したり押さなかったり、気が向いたらnoteのリンクを貼り付けてみたりみなかったり…だ。時期やタイミングにもよるかもしれない。

そこは読み手に任せようという気持ちで"ほとんど"と言っている。自分にとってそこはあまり問題ではないからだろう。
自分にとってちょうどよいツイッターとの距離感が取れていればそれでいい。


さて、本題に戻る。
くらっぺ先生の『はぐちさん』を知ったのは、確かわたしが25歳のときだ。人から教えてもらった。わたしより一つ歳上で、絵が上手く、何でもそつなくこなしてしまうような人だった。
彼女ははぐちさんが大好きで、仕事でヘトヘトになって帰ってくると、はぐちさんに癒されていたのだという。

丸っこい生き物が何か喋っている。家に帰るとそこにいて、程よい脱力感で、疲れた人を癒してくれる。一家に一匹(?)はぐちさん。わたしもはぐちさんと暮らしてみたいと思った。

そんなはぐちさんのマンガに、『ごめんなさい持ってきてる?』という話がある。


「ごめんなさい持ってきてる?」とケンカを仲裁するはぐちさん。ケンカする二人は、その日ごめんなさいを持ち合わせていなかった。そんな二人にはぐちさんが言うのだ。
「ほしたらまた二人とももってるときにな!」

現実はマンガのようにケンカが収まるとは限らない。けれど、なんて素敵な言葉だろうと思った。なんて素敵でユーモア溢れる考え方なのだろうと。

どうしてこの人はごめんなさいが言えないのだろう。わるいことをしたら謝るのが当然だろうと、イライライライラしてしまう人は多いのではないだろうか。
わたし自身も、一言あるかないかで違うのになあと思う場面に多々遭遇する。

そんなときに思い出したいと思った。
「ああ、この人は今日、ごめんなさいを持ってきてなかったんだな。慌てて家を出てきたのかな、どこかに落としてきちゃったのかな」
どうせなら、お互いにごめんなさいを持っているときにケンカしたい。

気休めに過ぎないかもしれない。けれどこういう気休めが案外とても大切で、荒れた気持ちを救い上げてくれる。
そういうことって、あるのではないだろうか。


「あっ、ごめんなさい言い忘れた…」後になって後悔することもある。ごめんなさいを持ち合わせていなかったことに気がつく。
いつから持ち歩かなくなってしまったのだろう。どこに忘れてきたのだろう。


家の玄関?

最寄り駅?

さっき上司に怒られたときにうっかり落としてしまったのか。

読もう読もうと積まれてゆく本の上?

もしかして、昨晩洗面所に流してしまったのだろうか?

忘れ物をしてしまうように、ごめんなさいを忘れてしまうことがあるのかもしれない。
そう思えたら、あやまれない人のことも、少しやさしい気持ちで受け止められるかもしれない。


素直にあやまれる人がすきだ。立場とか年齢とか関係なく、何かよくないことをしたらごめんなさいとあやまれる、その素直さを持っている人は本当に素敵だと思う。
わたしもそう在りたい。そう在れているだろうか。


強がりやプライドから、ごめんなさいが喉元でつかえてしまう人。そもそもごめんなさいを持ち歩く習慣がない人。ごめんなさいをバッグに入れ過ぎて、ありがとうよりごめんなさいが先に出てしまう人。


「ごめんなさい持ってきてる?」


自分にも問いたい。
お財布と家の鍵、ハンカチとスマートフォン。リップにイヤホン。それからごめんなさい。
カバンに入れたのを確認してから出掛けたい。

あなたは今日、ごめんなさい持ってきてる?
わたしは今日、ごめんなさい持ってきた?

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さき
最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。