すきなものに触れる時間は、自分の帰る場所を作るための時間。
高校生の頃に読んで以来、ずっと大切にしている小説がある。赤い背表紙に、星空の中を歩く二人の男女のシルエットが描かれた表紙。新潮文庫のその文庫本を、いまでも大事に持っている。
わたしの地味な高校生活を支えてくれたのは、恩田陸さんの『夜のピクニック』だった。いつも参考書の横に置いて、勉強に疲れる度にぱらぱらとページをめくったものだ。
現実の学校生活に嫌気がさすと、小説の中の”みんな”に会いに行った。こんな高尚な会話をする高校生が、果たして現実に存在するだろうかと心の中でつっこみながら、夜通し80キロを歩く彼女(彼ら)たちの中にわたしも混ざりたくて仕方がなかった。
会話をすることから逃げていた当時のわたしにとって、会話をせずには歩き通せない“歩行祭”は、最も避けたいイベントのはずだ。なのにわたしは、歩行祭に参加したくて堪らなかった。
本当は、会話に飢えていたのだ。会話をしたくて堪らなくて、けれど周りの同級生がわたしにはとても怖く思えて、小説の世界に救いを求めた。当時、わたしは地に足を着けて現実世界を生きていただろうか。ポーカーフェイスを装いながら、心はいつもグラグラと揺れていた気がする。
本棚に並べていた文庫本を久しぶりに手に取った。単行本も良いけれど、手の中に収まる文庫本はやはり落ち着く。ここ数日、高校生の頃と同じように、デスクのすぐに手が届く場所に夜のピクニックを置いて過ごしている。時折ページをめくっては、自分の気持ちと葛藤しながら80キロを歩く彼女(彼ら)たちに思いを馳せる。
憧れだったはずの“みんな”が、いまでは少し違って見える。完璧に見えていた“みんな”は昔よりも不器用で、憧れの存在ではなく、もう少し距離が近い存在になった。16歳のわたしは、憧れだけを頼りに生きていたのかもしれない。
テレビを観るのがしんどくなった。録画しておいたドラマの内容も、半分くらいしか頭に入ってこない。バラエティ番組の笑い声が頭に響いて疲れてしまう。
新しい情報を頭に入れることがしんどいとき、すきなドラマや映画をテレビの代わりに流す。最近は毎晩のように、同じドラマの8話と9話と10話を繰り返し流している。
ちょっと疲れているのかもしれない。また新しい一日がやってくるのかと思うと、お腹がしくしくする。
何度も同じものに触れていると、自分の中に”それ”がゆっくりと沁み込んでくるのがわかる。一時的に新しいものを欲することはあっても、またそこに戻りたくなる。すきなものに触れる時間は、自分の帰る場所を作るための時間なのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。