『寝ても覚めても』感想
意識的に夢を追い、無意識的に現実を追っていた。
衝動的に生きる麦が分からない。あなたの存在とあなたを追う時間は全てフィクションのようだ。平穏に生きすぎる亮平とあなたとの時間も、平穏すぎてフィクショナルだったのかもしれない。
この映画では、衝動や平穏から離れた現実と向き合わなければならない瞬間が、ひたすらに映し出されない。些細な日常に夢中であることの熱が落ち着いていく現実がない。
夢も、幸せも、覚めるのは最後だけだ。
綺麗でない川が汚いと気づける。
夢のような衝動も平穏も取り除かれて、感情が露わになって溢れる。厳しい荒波が打ちつけて、冷まされて、何かを感じられる。
やっとぼんやりとしていた時間が終わった。
全てを捨てて追いかけて何を見ていたのかが分かってくる。捨てたものを引き返すように追いかけてやっと何に対してのどんな気持ちなのかが分かってくる。
本当に身勝手だけれど、汚いことに気づいて生きていけることには価値がある。
夢のようでピントの合わない不鮮明な時間よりも、現実的な感情の押し合いが流れ続ける時間には鮮明な綺麗さがあると思うから。
覚めて、冷めて、向き合えて、やっと人間関係がはじまるのかもしれない。
岡崎のお母さんがそうだったように、醜くて汚いことは事実でも、夢のような時間を現実で送れども、冷めたどこかのタイミングでまた誰かを大切にして歩み始めることはできる。
そして、夢のような感覚と平穏であろうとすることが人を救うことも何度もある。
そうでなければ、マヤ夫妻の関係が始まることも、亮平が作ってきた様々な人との幸せもなかったはずだ。
だから夢を否定することも覚めていくことも二元論では語れない。夢に溺れることも、さめるように訪れる混濁とした川を綺麗に思うことも、大切にしたいと思った。