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【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #37
第5話 呻く雄風――(7)
翌日。
アサカゲさんは、朝からグラウンドで、封印の儀式を行う為の下準備を整え。
ハギノモリ先生は、協力してくれる霊能力者たちを出迎え、念入りに打ち合わせを行っていた。
急な午後休校となったが、生徒たちからすれば、金曜の午後が公然と自由になって嬉しそうな様子である。みんな口々にどこへ遊びに行こうかと話し合いながら、校舎をあとにしていく。先生たちが校内放送や巡回を行って、早急に下校するように促しているが、生徒の足取りの軽さを見るに、そう難航はしなさそうだ。
「あ、ろむくんだ。ばいばーい」
「うん、ばいばーい」
「ろむち、さよーならー」
「はい、さよーならー。気をつけて帰ってねー」
「ろむ君もなんかやるの? 頑張ってね」
「あはは、俺は隠れてるだけで、なんにもしないよ。ほら、早く帰ろうね」
俺はといえば、校内を歩き回りながら、生徒を見送っていた。
ここまで澱みが酷くなってくると、人の多い場所を避ける云々は意味を為さなくなっていた。だから久々にたくさんの生徒と言葉を交わし、気を紛らわせていたのだ。身体は相変わらず不調を来しているし、気を抜くと意識が飛んでしまいそうである。
今朝、いつものように姿を現せたのは奇跡に近いような状況だ。なにせこの土地は、澱みに押し負け駄目になってしまう寸前まで来ているのだ。土地が窮地に立たされたところで、土地神の自覚のない霊体まで影響が出るのかは甚だ疑問ではあるが。こうして今、へろへろに弱りきっているのは事実である。
土地が滅ぶのが先か、俺が澱みに押し負けて消えるのが先か。
どちらにせよ消えてしまう可能性が高いのであれば、この風景も見納めだ。俺は俺のやりたいようにさせてもらうとしよう。
「先生、アサカゲさん、校内の確認終わったよ。全員学校から退出済。俺もすぐ隠れるね」
リストバンドに向かって報告をしながら、俺も移動する。
作戦実行中は、俺も安全な場所に隠れているよう指示されているのだ。この場合、安全な場所とは言わずもがな、第四資料室を指す。
『ろむ君、ありがとうございます。僕のほうにも、さきほど校長から同じ報告が入りました。これで漏れはないはずです。間もなく、作戦開始します。朝陰さん、準備は良いですか?』
『……はい。いつでも大丈夫です』
そう答えたアサカゲさんの声音は、誰が聞いても緊張しているとわかるそれだった。
「アサカゲさん」
目的地に辿り着いた俺は、言う。
そこは行き慣れた第四資料室――ではない。
俺は、グラウンドを見渡せる第一教室棟三階にある三年五組の教室の窓から、そっと様子を窺いながら、アサカゲさんに声をかける。
「大丈夫。君は中庭のあんなに怖いのだって封印できたんだ。今日だって、落ち着いていつも通りやれば、なんの心配も要らない。でしょ?」
無力で無能な俺は、こうして言葉を贈ることしかできない。
せめて、朝陰月陽の相棒として。
どうか、万事上手くいきますようにと、願わせてほしい。
『……おう。さんきゅな』
流石に三階からでは、グラウンドの中央に立つアサカゲさんの表情まではわからない。けれど、その声音を聞く限り、幾許か緊張を解せたように感じた。
『それでは始めます。皆さん、ご武運を』
先生がその言葉を放って間もなく、一気に結界が展開されていくのが、なんとなく感じ取れた。
少しずつ、澱んだ空気が浄化されていく。
事前に言っていた通り、完璧に浄化されているわけではないが、ここ数日間の倦怠感を思えば、威力は上々だ。流石、先生の知り合いの霊能力者なだけある。連携もしっかり取れていて、結界はとても安定している。
……うん? 俺って、前からこんな風に校内の空気を感じ取れていたっけ?
ふと、そんな疑問が思い浮かぶ。
いや、そんなことは今まで一度もなかった。急に土地神としての力が戻りつつあるのか? でも、どうしてこんな急に? なにかきっかけでもあっただろうか。
だが、そんな思考を遮断するように。
ぞくり、と。
次々に疑問の浮かぶ頭に冷水を被せられたような悪寒がして、俺は咄嗟にグラウンドに目を遣った。
この距離から見ても悪寒のする〈それ〉は、以前に中庭で見た黒い靄なんかよりも、何十倍も深い闇の塊だった。学校中に散らばっていた〈よくないもの〉が寄せ集まった姿だとしても、心底気味が悪い。
〈それ〉は先生たちが展開している結界から逃れるように、ずるずる這うようにグラウンドへ向かう。進むにつれ大きな塊になっていく〈それ〉は、徐々になにかのかたちを模そうとせんばかりに蠢いている。
なにかの動物か。
或いは、人間か。
間もなく〈それ〉と真っ向から対峙することとなるアサカゲさんはというと、ひどく冷静な目でそれを見つめていた。〈あれ〉が準備していた霊術の発動範囲に入り次第、一気に片をつけるつもりなのだろう。恐怖より集中力のほうが勝っているのだ。
先生たちの展開する結界に押し出され、あと少しでアサカゲさんの間合いに〈それ〉が入ろうとした、そのときだった。
「どうなった? もう終わっちゃった? ――って、げえ、ろむ君?!」
教室の戸を豪快に開ける音と共に、聞き慣れた声がした。
先頭で入ってきたのは、タカハシさん。その後ろに、サトウさん、オオモモくんと続く。
「え、ろむ君?! あー、でもそっか、ここが一番良く見えるもんね、グラウンド。考えること一緒だったかー」
「ああもう、だから言ったじゃないか。せめてひとつ下の階にしようって」
三者三様に驚いた様子を見せながら、小走りに窓際までやって来た。
「な、なんでここに居るのさ、君たち。どうして帰ってないの?!」
動揺で息が詰まるような錯覚に襲われながら、どうにか俺は言葉を捻り出した。
どうしよう。早く学校の外に出さないと。
しかし、状況は既に始まってしまっている。今から下手に動かすほうが危険かもしれない。
「ごめん、ろむ君! でもあたしたち、どうしても朝陰さんのこと応援したくって」
「先生もろむ君も、トイレの中まで巡回には来ないだろうと思って、隠れて待機してたの」
「僕も、二人と同じです。途中で二人と偶然会って、一緒に来ました。あ、あのでも、念の為、お守りは用意してきてます」
三人の手には、確かにお守りが握られている。きっと霊験あらたかなものなのだろうけれど、学業成就や家内安全という文字が気にかかる。
アサカゲさんを応援したいという気持ちそれ自体は、尊いものだ。春先じゃ、こんなことは考えられなかった。
だけど。
「駄目だよ、危険過ぎる。俺が道を教えるから、早く学校から出よう」
「でもでも、ろむ君だってここに居たってことは、朝陰さんの応援でしょ?! 嫌だよ、あたしたちだけ帰らされるの!」
タカハシさんからの見事なカウンター攻撃に、俺は思わずぐうと唸った。
俺もルールを破りこの場に居る以上、窘めて帰すことは不可能に近い。
「そ、それでも駄目なものは――」
自分のことは棚上げして、三人をどうにかして説得しようとした、次の瞬間。
かつて体験したことのないほど強烈な悪寒が、全身を駆け巡った。
ほとんど反射的に、窓の外に視線を遣る。
そこに、〈それ〉は居た。
目、目、口、目、口、口、口、目、目。
犇めく闇の塊に、大量の口と目があった。
目が、合った。
〈それ〉は、にぃっと口角を上げたかと思うと、間違いなくこう言った。
『みぃつけた』と。