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足の裏に願いを込めて

たまに、何をしても、見ても、聞いても、とにかくただ悪態をつきたくなるときがあります。
女性の周期的なホルモンの変化のせいなのか、疲労やストレスのせいなのか、分かりません。
私に直接関係のある人や事柄にだけではなく、なんてことない日常の中の風景にすらも、なんやねん、となるのです。

例えば、つり目の汚いキューピーちゃんみたいな像。
やたら有名だし顔も知っているけれど私、実物って見たことあったかな。
大阪には複製品が結構たくさんあって、いろんなサイズ、素材で作られていて、そして漏れなく全ての足の裏が異常に擦り減っています。
そこを撫でるだけで、幸せになれると思っている人がこんなにもいるのかと思うと、「なめとんのか!」と叫んでしまいたくなるときがあります。

こんなことを言うと、とんでもないひねくれ者のように思われるかも知れませんが、大抵の場合は、むしろ微笑ましく感じています。穏やかでありたいと願っているし、心がけてもいます。

でも今みたいに、何があっても無くても心が荒んでいるときは、ビリケンさんのルーツが大阪ではなくアメリカにあるという衝撃の事実にも腹が立つし、
あの擦り減り方からして、「幸せ」に生きている人の人口がもっと多くてもいいはずなのに、そうとは思えない社会にも吠えたくなります。


これは、私の内側の急昇降のせいであって、世界はいつも通りの歯車で回っているのだけれど、そこから一時抜け出したい気分になるというか…、逃げたい気分というか…、そんな感じ。
要はだから、だいぶひねくれる時があるということです。

そんなときは、極力人に会わないようにしています。
好きな人ならなおさら、思ってもいない酷い言葉で傷つけてしまうかも知れないと思うと、怖いからです。
それなのにしっかり寂しくなって、誰かに構って欲しくもなるから厄介。
心配されて優しくされて嬉しいはずなのに、冷たい態度で突っぱねてしまう自分の一貫性の無い言動に、落ち込み呆れます。


こういう、人間の支離滅裂で不条理な心情ととことん向き合って、理解して、言語化してアウトプットできる作家や俳優、あらゆるジャンルの芸術家たちは、孤独を愛したのかな。愛しているのかな。
だとしたら、相当変態だよな。
と、リスペクトすると同時に、畏怖の念を抱きます。

今の私は、大きすぎる孤独には耐えられそうにありません。
ので、逃げるように「ふれあい」を求めてしまいます。
そうすることで、何かを犠牲にしてしまっているという、漠然とした不安もあるにはあるのですが、表面上は上手く生きている気でいます。




足の裏を撫でる人にも、ましてやビリケンさんにも、罪はありません。

罪はない

ずーっと、分からなかったです。激しい怒りの根源が。
未知の怒りを抑えられなくなった人が、ヤ〇ーニュースのコメント欄とかに暴言吐くんだろうな。
ここ数年、その答えを自分の過去に探そうとしていました。
「自分のことについて書いて、孤独を感じる人が少しでも減ればいい」
とか、
「トラウマを正直に晒すことで、一人でも共感者がいてくれれば」
とか、
体裁の良い理由を、あたかも崇高な志であるかのように、後から付け加えていたような気もしてきました。
でもたぶん、それだけじゃないのかも知れません。

これからの目標は、容易に「わかった」と思わないことです。
分からないものを、未完成のまま抱える。
綺麗ごとにまとめることはあっても、そこで終わらずしつこく掘り下げる。
ビリケンさんに、「阿呆!」と罰当たりなことを思っても、そう思った自分を無視しない。正当化もしないし、だからって悟りもしない。


来年は、もっとおもろいことになりますように……。


こんど通天閣、登ってみようかな。







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