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リハビリテーションと自分のストロングポイント

先日、入院中大変お世話になった仲良しのリハビリの先生たちと、久しぶりに会ってご飯を食べに行きました。
理学療法士の"みゆちん"と作業療法士の”兵長”とは、退院後も頻繁に連絡を取り合うほどの仲で、なんならみゆちんとは一緒に鎌倉に旅行したこともあります。
(兵長は、シンプルに見た目が『リヴァイ兵長』に似てるから勝手にそう呼んでます)
先生たちとの関係も、早いものでかれこれ4年……。
入院生活が昨日のことのように思い出せます。

クソ野郎だった入院当初


汚い言葉で失礼しました。
が、私はほんとにただのクソ野郎でした。
家族と担当医以外とはろくに話そうともせず、リハビリの先生に話しかけられてもほとんど無視。
『こんな場所にいるはずじゃ、こんなはずじゃなかった』
『私の気持ちを分かったふりしないで』
『今までどんな勉強してきたか知らないけど、実際に障がいを持ったことなんてあんの?』
まだなんにも成し遂げてないのに。私は。これからだったのに……。
もう生きてても仕方ないとまで思いました。

ちなみにリハビリの語源はラテン語だそうです。
re(再び)+habilis(適する)

中世及び近世ヨーロッパでは、キリスト教の「破門の取り消し」や「名誉の回復」として用いられており、ジャンヌダルクのリハビリテーション(名誉の回復)やガリレオ・ガリレイのリハビリテーション(名誉の回復)として用いられていました。

わが国では、社会の偏見や政策の誤り等のために、奪われ・傷つけられた尊厳・権利・人権が本来あるべき姿に回復することとしてとらえ、リハビリテーションを全人間的復権と表しました。

日本障害者リハビリテーション協会(JSRPD)

他人の回復を手伝い、支え、一緒に考える。
そのときの私には綺麗ごととしか思えず、『誰かのために』なんて発想は幻想と自己満でしかなく、
そんなものを満たすために利用されるのはご免、と先生たちとの全てのコミュニケーションを遮断していました。
自分の身体の状態も、置かれた状況も、過去も未来も現在も、現実の何もかもを受け入れられずにいました。

緊急事態宣言発令でラプンツェルになる


2020年4月。
大阪でも最初の緊急事態宣言が発令。
その数か月前から病院では、コロナパンデミック予防のため家族以外の面会は禁止。面会も1日15分までとされ、ただでさえ簡素で味気ない入院生活がさらに苦痛なものに。
それまでは週一回許されていた外泊も、ちょっとコンビニに行くのも禁止。
緊急事態宣言が発令されてからは、一切の面会・外出・外泊、さらには、自分の属する病棟以外への移動も禁止という、厳しい制限が設けられました。
無理もありません。
脳神経外科病院の入院患者のほとんどは7、80代の高齢者。基礎疾患を持っている方も少なくはなく、コロナ感染やインフルエンザが命とりになりかねません。

内科の担当医も「もう退院したい」とクヨクヨ泣く私に、
「せっかく回復期に入ったんだから、頑張ろう」
と、たじろぎながらも励ましてくれました。

ベッド脇の窓の外。難波の喧騒を恋しく聞くだけの日々。
あんなに嫌いだった人混みが懐かしく、とても大事なものだったように思えて、その中で歩く自分を想像しました。
でも現実は病床の上。社会から取り残されたように感じました。
塔の上に軟禁されたラプンツェルは、こんな気分だったのかな。

病院が学校みたいになる


何がきっかけだったっけ…。
リハビリに、リハビリっぽくない”ガチの筋トレ”を取り入れてくれた先生と話すようになったのが突破口だったような……。
とにかく、それ以降の入院生活が楽しくて仕方がありませんでした。24時間病院にいることで自然と彼らと接する時間も増え、いろーんなことについて話すように。
リハビリの先生たちは、そのほとんどが2、30代の同世代。
急速に仲良くなって、毎朝先生たちが出勤してくるのが楽しみになりました。

中でも先に紹介したみゆちんとは、リハビリ中にリハビリをした記憶があまりないほど、女子高生のようにきゃっきゃと騒いでいました。
思えばあの日々は私の人生の中でも、最も穏やかに過ごせたひとときだったように感じます。
頑張れないし結果も出せないけど、そんなありのままの私をも受け入れて、それでいて温かく見守ってくれる場所。
『失敗したら見捨てられる』
なんて心配なんかちっともなくて、ダメならダメで笑っちゃえってな感じのホーム感。
”焦らず・慌てず・諦めず”
をモットーに、ただただ楽しく過ごす日々。
リハビリって、身体だけじゃないんだ
特別な場所になりました。

それもこれも、クソ野郎だった私のことを見捨てず諦めなかった先生たちのおかげ。
彼らは、辛抱強く私の心が開くのを待ってくれました。
当時まだ新人だったみゆちん。
社会人1年目でこんな面倒くさい患者の担当にされて、きっと大変だったよね。
でも私は本当に救われました。
あなたたちの優しさと温かさに。

自分の才能を知ることの大切さ



自分でも驚きでした。
あんなに大嫌いだった場所が、こんなに大切な場所になるなんて。
もう一生笑えないかも知れないと思っていたのに、こんなに心から笑っている自分がいる。

「自身の強みは何か。知っているのと知らないのとでは、創るものに大きな差が出る。第二第三の目で自分を見直して、ストロングポイントはなんなのか、じっくり考えてごらん」

退院してから数年後。
尊敬している方からそうアドバイスをいただき、しばらく考え込んでしまいました。
『私のストロングポイント……』
分からなかったです。

でも先日の食事会で、久しぶりにみゆちんと兵長の笑顔を見ていて気付きました。
私はたぶん、
『どんな状況に陥ってもそこに光を見出せる』
『人のことを割とすぐに好きになる』 (人によるというのは大前提だけど…)
という才能があるかも知れません。後者に関しては弱点にもなりかねないけど、嫌いになるよりはマシでしょう。

自分で自分の強みを認めることは、傲慢で恥ずかしいことだと思っていました。
しかしそうすることで、確かに自己受容に一歩近付けたような気がします。
私自身が一番、私のことを認めてあげられてなかったのかも知れません。

だからって社会はそんなに甘くない


病院で書いた書き初め


ありのままの私が受け入れられている。

そう感じたのは、そこが”病院”という徹底的に守られた空間だったからでしょう。
患者の出来ること出来ないことが周知され、そのために管理された空間。
でも一歩外に出ると、そういうわけにもいきません。
だって、みんながみんなそれぞれのたった一度の人生を生きているから。たった一人の自分で。

だからやっぱり一番大切なことは、誰かから受け入れられようと躍起になることではなく、まずは自分で自分を受け入れることだという気がします。
この新しい感覚も不器用な左半身も、まだ完全には受け入れられていないかも知れないけど…。
ちょっとずつ、ちょっとずつです。


それにしてもすごいや。
あなたたちが回復させているのは、ほんとうに人間の尊厳だったんだね。

今日はこれから、半年に一度のMRI検査です。M先生の検診です。
当時の先生たちはもうほとんどいなくなっちゃったけど、思い出の詰まった大切な場所です。

私の左足の石膏を先生がアート作品に


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