「ドラ〇もん」のタイムマシンみたいなまな板から学んだこと
「ひとりでもいいけど、いてくれるともっと楽しいよ」
そういう心持ちで人と関わることが、私の理想です。
そう思えるくらいの生き方をしていないと、他人任せになったり、何かにつけて押し付けがましくなったり、外敵要素に期待や執着しすぎて結果的に自分がしんどくなるからです。
そうは言っても結局相手に期待したり、見返りを求めたりすることもあるのですが……。
最終的にはいつでも何でも手放せる人でありたいと思っています。
そのことをようやく本当の意味で理解し始めたのは、ごく最近です。
私は生きた年月の割に、いろんな体験をしてきました。
”別にそんな特別なことはない。同世代の人たちもみんなそれぞれ一生懸命、大変な思いもして多くの経験を積み重ねてる”
それが謙虚な姿勢であり、いくつになっても学ぶ姿勢を持つべきだと思っていました。
もちろん、謙虚であることも誰からも学ぶ姿勢でいることも、生きていく上でとても大切な心構えです。
けれどこれからはそれだけじゃなくて、
「私はこんな体験をして、そこからこんなことを学んでこう感じた」
という自分ならではの価値観や学びを共有することもまた、生きる上で重要なことのように思いました。
謙虚もいき過ぎたら卑屈になっちゃうし、それって客観的なものの見方からますます離れていくような気もするし。
「君はもっといろんな人の人生や価値観を知って、もう一度自分のを見つめ直すといいよ。そしたらまた、自分の体験に新たな発見があるから」
私がとても尊敬している、某出版社の文庫本の編集者の方から言われた言葉です。
そのときの私は、今にして思えば、一見ポジティブで明るく困難から再生した生還者。みたいな面構えでした。
「あんなこともこんなことも乗り越えたんだから、わたし最強」
といったところでしょうか。
そうでも思わないと、辛くてやりきれなかったのかも知れませんが。
けれど深い部分では自信の無さを隠すのに必死で、むしろそれまでよりも過去に固執してしがみつき、誰にも理解なんかさせるもんか、という傲慢な状態でした。
きっとその編集者には全て見破られていて、まだまだ凝り固まっている私の精神をほぐそうとしてくれたのでしょう。
それから少しずつ、
「こういう体験をした私から、きっと皆はこんな言葉や価値観を期待しているんだろうな」
という、空っぽの言葉を選別するのを止め
「辻褄なんか合わんでも、そう感じてしもたんやから仕方ないがな」
を、私なりの言葉に変換して吐き出すようになりました。
そしたら徐々に、自分にとって必要なもの不必要なもの、好きなもの嫌いなもの、得意なこと不得意なこと、人生の優先順位、といった自分の価値観が明らかになって、それからはいろんなことが楽になりました。
自意識に雁字搦めになっていた部分に、やや図太さがプラスされた感じでしょうか。
まー、そういう風にしたら少なからず、いわゆる”普通”でない部分が自分にもあることに気が付きます。
そんな(ちょっと多くの人には言えないような)異常というか特殊な意見を口にしたときに、共感はせずとも最後まで聞いてくれて、そういう考え方もあるんだね、って言ってくれる人の存在に乾杯。
そういう人こそが真の友だちだと思うし、例え頻繁に会ったり連絡を取らなかったとしても、その人が存在しているという事実だけで強くなれるような気がするんです。
”強くなれるような気がする”
なんて、また陳腐な台詞みたいになりますけれど。
ほんとうにそう思います。
そんな人に出会っちゃうと、もうこれまで気にしていた細かいことがどうでも良くなるというか。
例えば私は最近、髪をアップにすることが増えました。
それまでは、髪を結ぶことを(特にハーフアップ)後頭部の手術跡が丸見えになってしまう角度があるからと避けていました。
「なんだそんなこと」
と思われるかも知れませんが、少し前までは、それは私という人間の尊厳に関わる重要なポイントでした。
また、母が誕生日プレゼントで買ってくれた、片手だけで食材を切られる障碍者専用のまな板セットを使うようになりました。
以前はそれを使うことを頑なに拒否し、指を切ろうが爪が剝がれようが、意地でも普通のまな板と包丁を使っていました。
それも同じく、私の尊厳・プライドに関わる重大事項でした。
でもね、もう、っどーでもいいんです。
だって、切りやすいもん。
ポニーテール、楽やもん。
「えいやっ!」
って、ちゃぶ台をひっくり返すように諦めてしまうと
「諦めるとこんなに軽くなるんだ」
と開き直れたんです。
それもこれも、私がどんなことを感じて生きているのかを知ろうとしてくれて、理解しようとしてくれる人がこの世に一人でもいる。
という事実を知り、認め、受け入れたからです。
それってたぶん、現在生きている人でなくてもよくて、例えば亡くなった親族でも、生前交流があった知人でも、通じ合えているという実感さえ持てたら誰だっていいんだと思います。
”人は死んでも、誰かに記憶されている限り消えない”
とはよく耳にしますが、私の場合はたまに、亡くなった祖父や祖母の意志みたいなものを、自分の中に感じることがあります。
「あ、今の判断はハルベ(お爺ちゃん)のやな」
とか、
「今の捉え方はハンメ(お婆ちゃん)のやな」
とか。
以前よりも淋しさ感じる頻度が各段に減ったのは、
「一人でも楽しめる。独りじゃないから」
と思えるようになったからかも知れません。
いつかの私は、
「誰のことも独りにしたくない」
なんてカッコいいこと言ってましたけれども。
それは正直、今だって変わりません。
でもその前に、自分のことを独りにしないために、自分をまず全うするべきなんやと思います。
自分のことをまず愛するべきなんやと思います。