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ピンヒールを脱ぎ捨てて

街を散歩したり、レストランに行ったとき。
私はキレイな女性に見惚れてよくぼーっとしています。
特に脚。
まっすぐに伸びた脚に、高いピンヒールを履いてシャンと背筋を伸ばしている女性を見つけると、なぜかわくわくゾクゾクします。
ほとんどスケベおやじのメンタルです。

それは子どもの頃から、しかもだいぶ幼かった頃からの癖でした。
私もいつか10㎝のピンヒールを履いて街を闊歩したい!
と思い、一人で留守番中、下駄箱から母の高いヒールを取り出しては、姿見の前でポージングの練習に勤しみました。
地面から離れれば離れる程、自立したかっこいい、それでいて色気ぷんぷんの女性になれるような気がして、鏡に映る自分の姿に面映ゆくもなりました。
大人になったらこんな靴を履いて、誰もが振り向くような綺麗でかっこいい女性になる!
小さな、けれど切実な夢でした。


そして大学生になってすぐ、私はたくさんの靴を買い集めました。
そのほとんどが、10㎝以上のピンヒール。
いつか履いた母のヒールのような、脚がすらりと長く、体が引き締まって見えるヒール。
お尻がきゅっと上がって、背筋がピンと緊張して、デニムに合わせてカジュアルダウンしてもかっこいいし、上品なカクテルドレスに合わせると、一気に社交界チックな気分になれる魔法のアイテム。
当時から身長が170㎝近くあった私は、それを履くと気持ちまで大きくなって、
「いま、良い女性っぽくね!?」
と、得意気でした。

「俺がチビに見えるからヒール履かないで」
と言った元彼とはそれが発端で別れ、
「そんなん毎日履いてたら外反母趾なんで」
と言う母や伯父の言葉は無視。
誰がなんと言おうと私は死ぬまでヒールで、ランウェイを歩くみたいに生きるんや!
強くそう信じていました。
ステージの上でも栄えるように、足元を見なくてもヒールで階段を降りる練習もしたし、ヒールを履いたまま走ることなんて朝飯前でした。
ヒールが高ければ高い程、プライドも自尊心もステータスも、高く持ち続けられるような気がしました。
それはもはやただのお洒落ではなく、私が私らしくいられる、もしくはそれ以上に見せられる必須アイテムでした。


今となっては、ぺったんこのサンダルやバレェシューズ、歩きやすいスニーカーしか履かなくなりました。
履けなくなった”と表現した方が正しいのですが。

4年前に受けた右脳の手術の後遺症で左半身が麻痺してからは、ヒールなんてもっての他、通常歩行さえも難しくなったからです。
足の裏がちゃんと地面に着地しているという事実すら、目視しないと分からない身体感覚になりました。
けれどそのことについて ――私の戦闘着(靴)でもあったヒールを履けなくなったことについて―― 術後当時はなんとも思いませんでした。
というか、そこを考える余裕すらなかったです。
一生寝たきりのままだったらどうしよう、とか、顔面まで動かなくなったらどうしよう、とか、ずっと介護が必要な身体になったらどうしよう、とか。
今後の自分の「どう生きていくか問題」に悩むのに必死で、理想の自分について考える暇がありませんでした。

退院後数か月が経つと、どうしてもまたヒールを履きたくなってきて。
リハビリの先生に無理を行って、ヒールでの歩行練習もしました。
でもやっぱり、さっぱり。
分からないんです。かかととつま先がどこにあるのか、脚の裏の感覚も。
両肩を支えられながら歩く姿はまさに、生まれたてのバンビ。
鏡に映る自分に笑っちゃいました。それと同時に、泣きそうにもなりました。
もうあの時みたいにヒール、履けないんだ。それもたぶん、一生。
じゃあもう、あのプライドもステータスもアイデンティティーもひとつ、失くしちゃうのか。
落ち込みしました。
今だって、たまに落ち込みます。
やっぱり私は、ヒールをカツカツ鳴らして歩く姿勢の良い女性が好きだし、
カッコいいと思うから。憧れているから。

どうしようもないねん。
分かっていても、落ち込んだって意味がないと分かってはいても、どうしたって落ち込む日はあります。


これまでは、
「こうなったことには意味がある」
とか、
「あれは見せかけの自尊心であって、本来の自分のプライドではない」
とか、
強がってそう思うようにしていたけれど、もう、落ち込む自分を無理に上向きにさせようとするのにも疲れました。
きっと、落ち込んでいいんです。
むしろ落ち込む自分にちゃんと寄り添って、一番の理解者、伴走者になることが大事なんだと思います。
無理に励まそうとしたり、ポジティブにもっていこうとするから余計に孤独になって、自分が散り散りになっていくような気がしました。

あ゛あ゛ー!!ヒール履きてェ!コノヤロー!!!!!!

ってなってる自分に共感して、ぎゅっとする。恥ずかしいけど。

「大丈夫やで」
”大丈夫ちゃうねん。”
「もうええやん」
”よくないわ。”
「やっぱ悔しいよなぁ」
”うん。”
「羨ましいよなぁ」
”うん。”
「自分やったらもっと綺麗に歩けるよなぁ」
”うん。”

みたいな会話をしちゃったりなんかして、淋しい思いをさせないこともまた、自分を大切にするということなんだと思います。


こうして、履けなくなったヒールについて想いを馳せることが出来るようになったのも、またお洒落をして出かけたいと思うようになったからだし、
お仕事をして恋をして、いつかの自分にとっての「くだらない悩み事」を持てるようになったことも、楽しくて幸せだなって思います。

私は明日も、スニーカーを履いて闊歩します。

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