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依存to共存

アルコール、たばこ、ギャンブル、食べ物、整形、恋愛……。
お尻に「依存」がつくと、言葉は一気に不穏な雰囲気を纏います。
何かに依存していないと生きていけない人もいるのかな、と自分のことを顧みて思います。
程度の差こそあれ、人は皆何かに依存しているんじゃないかと。
親、子ども、仕事……。
そう言えば、趣味と依存の境目はどこにあるんでしょうね。

自分に足りないパーツを、他の何かで補おうとする気持ちが強すぎて執着になり、知らないうちにさらに自分が"損なわれてく"。
気付けば以前よりも空っぽになっていて、その不安を解消するため、また別の何か・誰かに依存する。

例えば、失恋の苦痛をお酒に酔うことで和らげようとした結果、今度は対象がお酒に変わる。
結局根本的な問題は何も解決されていなくて、逃げ続けている限り、ヤドカリのように依存先を変えるだけ。
そうやって自分の問題から目を逸らしたり、気づかないふりをして生きる大人たちのことを私は、見下し蔑んでいました。

――みっともない――

とても、濃く、強く。

――情けない――

それもたぶん、すごく幼い頃から。


何度も同じような失恋を繰り返し、その度にこの世の終わりかのように嘆く人を心の中で馬鹿にしたし、
酒浸りで、一体何が不満なのか、シラフのときでさえ呂律の回らない伯父にうんざりもしました。
働いてばかりで、口では「仕事が生き甲斐」なんて言いながら、身心を削る大人への理解に苦しみ、
自分の出自を憐れみ、自己憐憫に陥る祖母に悲しくなりました。
お金の正体を知らないまま、概念に囚われて家族を捨てた二人の父親に、失望もしました。

何かに依存し囚われた人たちを見て、私は絶対にこうはならない。
ちゃんと自分の軸を持って自由に、強く生きようと、幼心に決心したかも知れません。


さて。
三十一歳の現在の私が、果たして軸を持って強く自由に生きているのかと聞かれると、胸を張ってYESとは言えません。
むしろ常に何かに、誰かに依存していると言った方が正しいです。
苦痛や不安を畏れながら、手当たり次第にしがみつけそうなものを探して生きているような……。
いつの間にか欠けていた自分のパーツを補うために、自分以外の何か・誰かの中に生き甲斐を求めがちになってしまいました。

「逃げ」

人生を引き受け、現実と向き合っているつもりでした。
けれど実際の私は、あの頃見下していた大人たちのような「ヤドカリ」に過ぎませんでした。



そのことに気付いたのは、山頂にあるカフェに行く途中、森の中で道に迷った瞬間でした。
道に迷うも何も、そもそも道らしい道も電波もないし、もう、まじで遭難したと思いました。
相変わらず大袈裟な私です。
家を出る前、グーグルマップが示した道順をしっかりと頭に入れたはずなのに、まんまと迷子に。

道なき道を歩いて歩いて、今にして思えば、おや?おかしいぞ? と思った時点で引き返すべきだったのかも知れません。
けれどせっかくここまで来たんだし、意地でも目的地に着いてやる、という一心から、来た道を戻る選択肢は頭になかったです。
約三十分間くらいでしょうか。(体感では三時間)
鬱蒼と木々が生い茂る森の中、聞いたことのない鳥の鳴き声や風に葉が擦れる音、自分の呼吸音だけがやけに大きく鼓膜に響きました。
そのとき「ひとりだ」ということを実感しました。
それはもう、猛烈に。

自分はたった一人で立っていて、私以下でも以上でもなくて、それ以外に何も所有していないし、何も失っていない。

完結された、脆弱で、大きな何かの一部だということを感じずにはいられませんでした。
肯定も否定もない、たただここに居る、という安心感。
木も、土も、海も、風も、虫も、みんなひとりでみんな完璧。
私も例外ではなくて、道に迷って怖いのに、何故かとても満たされた気分になりました。

私以外に、私を傷つけられる者はいない。
何かを奪われることもない。
人間関係、過去のしがらみにトラウマ、身体障碍……。
そういうのは、私が好きに弄んでいただけで、手放したければそうすればいいし、手元に置いておきたいならそうすればいい。


自分の弱さを曝け出すことの出来る人は、強い人だと思います。
愛の深い人だとも思います。
人の傷跡を見て、なぜこうも愛おしく思うのでしょうか。
それはたぶん、その人が経験してきた苦痛や困難を労わりたいと思う気持ちが、誰の中にも最初から備わっているからだと思います。
自分にだって、そう思える日がくると思う。
そうであって欲しい。

今はもう、何かに依存しているように見える人のことを見下したり蔑む気持ちはありません。
全く無いと言ったら、嘘になるかも知れないけれど……。
でも少なからず、その人のことをもっと理解して、愛したいという気持ちはあります。

依存したままでいい。
向き合いたくなったときに、自分のタイミングでそうすればいい。
傍にいて寄り添うことがその人の助けになるならそうしたいけれど、人は誰でも結局はひとりなんだということを、前向きに捉えられる人になりたいです。
そういう人が好きです。

みっともなくとも情けなくとも、それでも生きていることが答えなのかなぁ……。
と、やっとたどり着いたカフェの一席で、汗だくで、カフェオレの旨さに悶絶しながら思いました。

あぁ……、帰るのめんどくさ。


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