「アジャイル」の何が難しいのか?
「アジャイルをやろうとすると、組織のこれまでの規則や考え方と合わないところが出てくる。だから、アジャイルを取り入れるのは難しい」
という反応を得ることは少なくない。もう10年も20年も前からこの声はある。それでいて、なお、いまだにある。そう考えると余程のことであると思えてくる。アジャイルが革新的すぎるのか、それとも組織が病的なほど固まりすぎているのか。
アジャイルという営み自体がこれまでのあり方とはあまりにもかけ離れている、というのは確かにそうだ。例えば、「職能横断」という考え方がある。アジャイルに長く向き合っている者からすると、「職能横断」はごく当然のことで、ことさら強調することではないとさえ感じてしまう。
ところが、サイロ化した組織においては、職能は分断されているが通常のことで、交わりを得るのに相応のコミュニケーションコストがかかるようになっている。部門をまたいで、仕事の依頼はもちろんこと、相談することさえも憚れる。異なる職能が集まってワンチームを形成すること自体がこれまでにはない。あくまで相談、依頼、調整、折衝を部門間、チーム間で行う。
職能横断は一つの例にすぎない。アジャイルが「掟破り」感を持ち込んでくる、という感覚におそわれるのは無理もない。
しかし、実のところ、アジャイルのあり方、やりようそのものが革新的すぎるとは私は捉えていない。現に、アジャイルの説明をすると「それなら、もうやっている」という声が返ってくることも、まあまああるのだ(もちろん、互いが言うアジャイルが「同じ」であることはほとんどない)。
では、アジャイルを取り入れる難しさとは何なのだろうか。
アジャイルとは、検査適応の言葉で表されるように「学習活動」にあたるものなのだ。いかにして、知り得ない知識(現実への理解)を獲得し、次の行動に活用するか。その営みを円滑にするためのあり方、やりようをアジャイルと呼ぶ。
つまり、アジャイルによって学びが促されることになる。それこそ、これまでとは異なり、圧倒的に学びが得られるようになる。いかに自分たちが作っているものが間違っているか、あるいは、どれほど作ることが下手くそであるか、が突きつけられることになる。何を作るべきか、どのように作るべきか。次から次へとお題が出てくることになる。そうした学びの機会に対して、体のほうが慣れていないと、立ち往生することになる。
アジャイルが組織に合わないのではない。アジャイルによって学習が促されるから、これまでの決め事と合わなくなっていくのだ。
事前に要件として決めたことが実際に試しに作ってみると、現実の状況や解決したい課題にフィットしないと分かったとき、どうするか? 作り進める中でどこに価値があるか分かってきたとして、その時、事前に決めていた予算がつきかけていたならば、どうするか? 新たに分かったこと、はじめて分かったことに、どのようにして対処するのか? これまでの組織の決め事では収めることができないことに直面していく。
このように整理すると、2つのスタンスがあることに気付く。すでに持っている知識だけで何とかしようとする姿勢と、仕事をする中でも知識を開発しながら何とかしようとする姿勢と。 決め事を先立たせてその範疇であらゆること収めていこうとするのは、前者の姿勢にあたらないだろうか。「アジャイルではない」ということと、「アジャイルである」ということの違いを説明する一つの見方と言える。
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