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音楽制作と蕎麦屋経営の間にある意外な共通点の話。

そうそう、次のアルバムは、ひとりの人の胸の奥深くに届くものを作りたいと話をして、ひさとしメンバーがそこまで共感してくれてたとは露知らず、noteで書いてくれたのを読んでとても嬉しかった。

そう思ったり提案したのはなぜかというと、深い理由はないと言ってもいいし、長々しく理屈を並べてもまあいいんだけど、それはどちらでもいいんだけど、やっぱり、作るのも発表するのも本当に便利な世の中になったこの現在という状況において、掲げるべき勝利条件はこれしかないだろうと、そう考えたのだ。

子どもたちのために一生懸命やる→笑顔が生まれる、という原理から始まったパパバンドなる運動が、あれよあれよと拡大のループを回転したことにはじまって、やがてそれが保育園の卒園を経て。多分成長原理を次の形にシフトしないといけなかった、そこに気づかぬまま作ったのが前作だった、と、いまはこう考えている。

(結局、長々しく理屈を並べ始めている)

本来自己満足の産物である文章を書く、音楽を作るという行為が社会性を持つことができるのは、それが他者に届くからだ。よく考えれば、自分の生み出した表現が人に届いて共感しあえるというのは、これほど不思議な話はない。まあ、これほど当たり前な話もないんだけど。ある種の奇跡的邂逅の可能性というやつが、文章とか音楽にはあって、や、それは料理でもウェブサービスでもあらゆるものづくりにある可能性なんだけど、それはそれとして、面と向かって子どもたちの前でがむしゃらにパフォーマンスしたのも大変楽しかったのだけれども、あれは第一期パパバンド活動であったのだと、つまり、ある時代が始まり、終わったのだと総括してみる。惜別の情に囚われるのではなく。過去とは、新たな主題を立ち上げることを通してリブートして初めて、現在という時間における意味を、リアリティを獲得できる。

いつもの通りまわりくどくなったが、まあ、簡単に言えば、ようやく次の一歩を踏み出したくなったし、踏み出すテーマも見つかったと、そういうわけだ。

レコーディングに向けてちょっとずつ原形をかたちにし始めているなかで、作品的なテーマだけでなく、制作的なテーマも見えてきた。多分、準備は整っている。あとは、いま見えている着地点をいかに超えられるかが勝負だ。セッションを通して化学反応を生み出すことができれば、その先も見えてくるだろう。

話は変わって、齢37にして蕎麦という食べ物が美味しいと思うようになった。もともとカツ丼が好きなので、最近はランチに蕎麦とカツ丼のセットを選択することが多い。ここで問題なのだが、カツ丼を食べるにおいて重要視しているスタイルがあって、最後のひと口は、カツの肉、脂、衣、卵、つゆ、米が最高のバランスとなる「理想のひと口カツ丼」となるように、長年、細心の注意を払ってきた。一方、蕎麦やラーメンなどの麺ものは、出汁とお冷やの「永久往復運動」の余韻が鉄則だ。ここで問題なのが、蕎麦で締めるか、カツ丼で締めるのかという究極の二者択一である。

また、蕎麦屋なるものを観察すると、実に多様な生態系がそこにある。うどんを選択できる店と、そうでない店。天ぷらは供するが豚カツは出さない店。田舎蕎麦、更科。立ち食い。カレー蕎麦に対するスタンスも店それぞれだ。そういえば、カレーうどん専門店はあるが、カレー蕎麦専門店は見かけない。

この話が音楽作りとなんの関係があるのかっていうと、なんか、深いところで滅茶苦茶通じる話があると思って書き始めたんだけれど、ちょっと書くのに疲れてきたので、また今度気が向いてみたら論じてみたい。

(ようへい)


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