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選択肢

与えられた選択肢から「選ぶ」。進学先もそうだし、ファッションも、今、食べているスウィーツもそうかもしれない。

それがイマドキの、この国に暮らす人々のスタンダードだ。

前の大戦の「戦時体制」にあったとき、国民の全員に「国民服/割烹着/モンペ」が徹底され、従わなければ「非国民」という考え方も流布した。

(「非国民」なんて漢語的な表現を、市井の誰かが創ったと考えるより、政府の官僚製のプロパガンダだろうと考えた方が素直だろう)

僕は、この頃、日清・日露の時代をアプローチに、江戸時代には豊かだった「市井の民」の個性が、国策によって奪われたんだろうと思っている。
そして、ジョン・ダワー博士が指摘されるように、実は「戦前・戦中」と「戦後」は地続きだ。

僕が生まれた頃「テレビ/冷蔵庫/洗濯機」を「三種の神器(歴代の天皇が王権の象徴として継承してきた三つの宝物)」と呼称し、ほんとうに各家庭もれなく、我先にと欲しがった。「三丁目の夕日」に描かれたように。

考えてみれば、これも異常だ。
まだ、国民の心は、まだ戦時中の「臣民」のそれだったんだろう。

そして、その気質は現在にも継承されている。冒頭に記したとおりだ。

たいていの僕らは選択肢を「選ぶ」ことが「個性」であるかのように思っている。でも、それは既成の「選択肢」なんだから、僕ではない「誰か」がデザインしたものであり、量産品でもある。

誰かの意図に従って、知らず知らずのうちに、僕の人生がデザインされていく。

僕は選択肢を選んだだけだ。でも、結果的にそうなっていく。

僕は誰だ。

最近はマスメディアを通じて病名までが「選択肢」化している。
少し動悸がしたような気がしたら、すなわち「心臓弁膜症」なんだろうか。前立腺肥大は六十歳代でも60%に近い。「頻尿」は病気というより、身体の経年劣化だ。素人診断だって横行する。

「支配」は細部に、そして命の根幹に及んでいくような状況だ。

だからこそ、その先にあるのは「家畜化」だ。

でも、僕は、高校生の頃、あの頃の喫茶店やライブハウスで、既存の選択肢を拒否して、自ら選択肢を創ろうとする人たちに出会った。全ての人がそういう人生を全うできたわけではなかったが、有名無名にかかわらずカッコいいまま、自分の人生を自分でメイキングしていった人たちがいるのを知っている。

できなかないな。そう思っている。
実際、フリーランスとしてしか働いたことがない。
それで「アラ還」までは来た。

一歩間違えば「非国民」だが、この時代の終わりも始まっている。「選択肢」を選んで生きている人たちは「選択肢」が変われば、一瞬にして変質するものだ。前の大戦時にも「いざ来いニミッツ 出て来りゃ地獄へ 逆落とし」が、敗戦後一年を経ずして「拝啓 マッカーサー様」と感謝の手紙を送るようになり、中には「マッカーサーを天皇に」という声も上がった。

(ニミッツはアメリカ海軍の太平洋艦隊司令長官、マッカーサーはアメリカ軍参謀総長で、日本占領にさいしては連合軍最高司令官)

「選択肢を選ぶ」という体質が本質的に変化するのでなければ、逆に「最後の授業」みたいなことは起こらないものだ。

AIによる無人化が汎用されれば「みんな」「世間」を気にする時代でもなくなる。マニュアルを「憶えて慣れる」仕事もなくなっていく。もとより、知価生産やエッセンシャル・ワークは「個性」を際立たせて働く現場だ。

これからも「選択肢を選んで生きていく」道は残るだろう。でも「就業」からは遠のき、ベーシックインカムの中に生きるようになると思う。

でも、それはそれだとも思う。

だって、「三丁目の夕日」の頃の、この国、幸せそうだったじゃないか。