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公衆

最近あまり聞かなくなったが「公衆」という言葉がある。ポピュラーなところでは「公衆トイレ」「公衆浴場」あたりだろうか。

その「公衆」という言葉は以下のように定義されているようだ。

共通の関心で結ばれているが,拡散して組織化されていない集団。ただし,同じく未組織集団であるが,集合密度の高い群衆とは対照的に区別される。 G.タルドによれば,群衆の場合,その成員が空間的にまた物理的に近接していなければ存在できないのに対し,公衆は分散して存在することができ,コミュニケーション手段の進歩により間接的接触で集団を形成する。

ブリタニカ国際大百科事典から

「集合密度が高い群衆とは対照的に区別される」となると、どうも何万人とスタジアムやアリーナに集まってい人々のことではなさそう。「公衆は分散して存在することができ,コミュニケーション手段の進歩により間接的接触で集団を形成する」となると、インターネット・メディア、SNSなどでゆるく発言し、ゆるくつながっている(ようなつながっていないような)人の方が「公衆」のイメージには近いようだ。

一方「大衆」

これは今もポピュラー。「大衆酒場」はさすがにレトロだけれど「大衆消費」という言葉は現役だろう。、広く行き渡ると「大衆化」といったりもする。かつて「大学の大衆化」とか。

デジタル大辞泉(小学館)には

1 多くの人。多衆。

2 社会の大部分を占める一般の人々。特に、労働者・農民などの勤労階級。民衆。「大衆の支持を得る」「一般大衆」

3 社会学で、孤立して相互の結びつきを持たず、疎外性・匿名性・被暗示性・無関心などを特徴とする集合的存在をいう。

とある。

3の「孤立して相互の結びつきを持たず、疎外性・匿名性・被暗示性・無関心などを特徴とする集合的存在」

「孤立して相互の結びつきを持たず」か。

「大衆」は大きな塊だけれど、相互には孤立している…まぁ、そうだよね。
言われてみれば、そんな感じ。

野球場にはたくさんの人がいるけれど、それぞれの人は「個」として、そこに来て、それぞれにそれぞれの応援をしている。ウエーブなどをつくる場合に球場全体がシンクロしたとしても、楽しみ方としては個々の問題。一体感を楽しんだとしても、それで「相互の結びつきを持つ」には至らない。

試合が終わって帰るときは、またバラバラ。

もしかしたらSNSが誕生して初めて「公衆」が可能になったのかもしれない。マスメディアとスタジアムみたいな場しかなかったら「公衆」は難しいのかもしれない。

たぶん、「公衆」って言葉。「公衆トイレ」「公衆浴場」って言葉に象徴されるように、もともとは上からの縛りだったんだろう。多数の人が共用して、各人の利用の仕方によっては、不潔になったり、荒れたり、そういう場所に「公」を自覚せよと縛りをかけたんだろう。だから「公衆酒場」って聞いたことがない。

「大衆」は描写で「公衆」は努力目標かな。

「公衆」には「一時的に集合した「群集」に対して、分散的に存在し媒体を通じて世論を担う人々」という定義もある。19世紀に編纂された「哲学字彙」の1912年の改訂版に記載されている文章だそうだ。

「分散的に存在し媒体を通じて世論を担う人々」は
何やら予言的でもある。

政府や自治体の施策は、まだまだ「大衆」向きに立案・施行されているし、会社などの「組織」も、僕らが「大衆」であることを前提に設計されている。でも、SNSの発達とともに、僕らは知らず識らずのうちに「公衆」化していっている…

僕らは「つながり」を求め始めているものね。考えてみれば、それだけでも「大衆」っぽくはないのかも知れない。

もちろん、全員じゃないと思うけど。

テレビのCMが大衆に向けてつくられるということは、そういうニーズだって大きなボリュームとして存在しているのだろう。オンライン・ゲームだって、テーブルトークRPGなものより大衆むけなものの方がボリュームだって気がする。ZOZOTOWN、メルカリだって大衆っぽいところを想定してのビジネス・モデル。

でも、それだけではなくなってきた。「一億総中流」ではなくなってきたのは明らかだし。

たぶん「大衆」はそのままに放りっぱなしにして、施策でタガをはめていくにはバラバラに過ぎるようになったのかな。

それで「迷える子羊」になっちゃう人もいれば、ミスからの「公衆」をデザインして自立していく人もいるだろう。

本格的な民主主義は、それからかな。「形式」じゃないやつ。

SNSだって、最初は「徒花」っていわれてたんだもんね。
「無理」ってことはないんじゃないかな。