カフェの孤独
彼は、日本ではあまり奏者のいない楽器の名手だった。
楽器云々というよりは彼の音色が欲しくて彼を呼ぶアーティストも多く
1970年代初頭という時代のアイコンになったCMソングにも
彼の演奏が全面的にフューチャーされたものがあり、
何枚かの記念碑的なアルバムからも、彼の演奏が聞こえてくる。
ときどきはツアーにも同行していた。
ただし、ギターやベースのように活躍の場が広いという楽器ではない。
出番は限られていた。
でも、そこのことは彼は気にする素振りもなかった。
出番がなければ「髪結いの亭主」的な喫茶店のオヤジだった。
店の主役は彼の奥さんで、珈琲も紅茶も料理もうまかった。
常連は、カレーかミートソースをよく食べた。
面倒だからナポリはやらないと、
これは「洗い」を担当する、オヤジの希望だった。
トーストだけはオヤジの担当だったが
チーズトーストにしろ、バタートーストにしろ、
パンの厚さに妙にバラツキがあるトーストだった。
でも、だからこそ、いい時代だったなと思う。
「街かど」と、プロフェッショナルな音楽制作の現場が
もっとシームレスで、もっと近くにあったんだ。
もっとお金から自由だったし、
世の中が、もっと「個性派」にも寛大だった。
今はドトールやスタバでも、周囲に溶け込むように、そこにいるんだけど
「公」のプレッシャーが強くて、
気を遣って、忖度しながら、でも、それを感じさせないように
そこにいるのがスタンダードになってしまっている感じ。
しかも、常連仲間はいない。
店での出会いが「おしゃべり」に繋がることもない。
寂しいから喫茶店に行った時代は、昔の話しだ。
今は喫茶時間自体が寂しい。空虚だ。
少なくとも人間らしいあたたかみはない。
その場を運営しているのは「人間」じゃなくて
「システム」だったりもする。
「孤独」はグルメだけではない。「喫茶」だってそうだ。
一人きりでスマホをいじるか、ラップトップを開くか、本を読む。
いずれにしてもモノローグな時間がデフォルトだ。
僕は「みんな」と一緒にいるのは苦手だ。
だから、喫茶店が好きだった。
あの時間に出会えるだけでホッとした。
スタバやドトールは、一見「孤独」に居心地がよさそうにみえるけれど
その実、暗黙のうちの「お作法」に則っていないと
弾かれそうな時間が流れていて
つまり「みんな」の空間だ。
だから「孤独」を拗らせてしまいそうな気がする。