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右脳的

右脳と左脳

右脳は「感覚的」に捉えること、イメージ・リーディングなどを司る。人間的な温かさを担当するとも言える。これに対して、左脳は言語、数値などで綴られる「理屈」の部分を担当する。学問的な部分かな。科学的な方向。物理的に脳を右左と分けて考えるべきではないという意見もあるから、ここでは「右脳的/左脳的」と表現しておく。

食事に使う「箸」。

箸を器用に使いこなす人も、そのノウハウを言葉で説明することはできない。オノマトペの連発になる。自動車の運転や、技能、スポーツなどの「技」についてもそうだ。こういうのを「手続き記憶」というらしい。

ハンバーガー・ショップやロードサイド・レストランの運営ノウハウなどは、調理も接客も。収益効率を考えて、この「手続き記憶」を極端に省いたものにデザインされている。職人技的な「感覚」が必要になる作業を省き、接客も「言語や数値で表せるマニュアル」でできる範囲内にとどめている。だから、毎日、通っても、その度に同じ調子で、ポイントのつくカードを持っているか否かを尋ねられる。でも、だからこそ「見習い」の期間はほとんど必要とされない。きょうから勤めはじめた人も10年選手のベテランも差異なく働くことができる。

それほどに「手続き記憶」は教えるのも教えられるのも難しい。この国の場合、高校までの学校教育では「手続き記憶」のトレーニングは、ほとんど施されていないから尚のことである。

僕は2010年に脳出血で倒れた。右手が使えなって「人工左利き」を余儀なくされた。

箸が使えない。

「書く」方は、すでに「キーボードが主」だったので、なんとか「左で」をマスターしていったが「左手で箸」は厳しかった。

でも、ある日突然、何の前触れもなく器用に使いこなせるようになる。

ああ、そうか。「右脳的」の方は「左脳的」な学習みたいに起承転結がないんだと、改めてそんなことを思った。

バイエル的なピアノ練習は、なんとなく「起承転結」というか「簡単な方から難しいへ」とデザインされている。でも、実際の楽器演奏技術の向上には「急に」がつきものだし、「これ(難しい)ができて、なぜ、これ(簡単)ができない」がつきまとう。

理屈どおりにはいかない。たぶんスポーツの競技技術でもそうだろう。伝統工芸などの技芸や芸能の所作だってそうだと思う。

ふだんは自分の脳がセパレートになってるなんて思いもしないが、実際には使われ方も、使いこなし方も全く違う「ふたつ」が共同作業で僕を動かしている。

だぶん。身体がシンドかった時期、「孤独のグルメ」に助けられたのも、体調が左脳的に筋書きを追うことを許さなくなっても、まだ右脳的な受動体は生きていて、松重さんの豊かな表情を捉えることはできたということに拠るんじゃないかと、今はそんなふうに思っている。

2024年12月4日のエントリー → 松重豊@孤独のグルメ https://note.com/papa_grayhair/n/n7c2f742031ee)

この国の学校教育は、あくまでも「左脳的」過多である。親の躾も健全なら「言葉」であり「理屈」だ。

だから「右脳的」を冷静に見つめる視座に欠けているのが常だと思う。しかも「左脳的」と違って「自分の右脳的」「右脳的な自分」を自覚するのは難しい。古典落語のいう「無くて七癖(ななくせ)」、癖なんかないよと言っても、だれしも七つくらいの癖は持っている、だ。

これは「親」も同じで、自分で「よくないことだ」と理屈で理解し、理屈で伝えることは、子どもの教育に活かせても、自分では自覚できていない(右脳的な)悪弊については、自分の表情や態度などから、そのまま子どもに伝えてしまうことも少くないという。

遺伝じゃないのかもしれないね。

フランスの文化人類学、教育社会学・文化社会学者ピエール・ブルデューらが提唱したハビトゥス(Habitus)という考え方、概念かな。

ハビトゥスは、長い期間にわたる行動の継続や繰り返しによって、ほとんど無意識レベルにまで習慣化された行動様式をさす。たとえば、勉強の時間になったら自然と体が動いて机に着く神経回路がセットされているかのように、条件反射的に体が動くのがハビトゥスである。

また、ハビトゥスは、個人や集団が物事を知覚・評価し行為に向かう際に無意識的に依拠する図式ともいえる。生み落とされたそのときから、ハビトゥスを通して、身振りや言葉遣い、趣味、教養といった体に刻み込まれていく文化能力をも相続していく。

つまり、「親の因果が子に報い」だ。
こういうところに大きく作用しているのが「右脳的」かな。

あなどれないと思うけど、その割には、僕ら「右脳的」に依然として無防備だ。でも、左脳的にノウハウ化できることで、僕らのすべてが回っているわけではない。事象のすべてをノウハウ化できるわけでもない。

それは事実だ。
実際は、箸の使い方でさえノウハウ化は難しい。

例えば「クールジャパン戦略」の失敗も左脳的に戦略をデザインし、左脳的に戦略を展開したことによるんじゃないかな。パリのマンガ喫茶の隆盛に、そんなことを思う。

(再開発な高層ビル群の空虚さも左脳的に過ぎたからかな)

とにかく、もう少し「右脳的」に光を当ててみよう。個人のライフデザインにも、この国の将来のためにも。