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聴き手/受け手

昔、街場には音楽評論家を気取った人がいて、彼らは確かに「データ」としてのジョン・コルトレーンに詳らかだったけど、肝心の「ジョン・コルトレーンの奏でた音楽」については主観的な感想に終始し、それ故に、よく、お互いにあさっての方向で「激論」を闘わせていた。

だいたいジャズが好きという割には、雑誌が紹介したメジャーな演奏家のことしか知らず、彼らは、ジョン・コルトレーンをジャズ全体の中で位置付けられるほどジャズを聴いたという経験は持っていなかった。

当時はレコードでさえ高価で、ニューヨークにジャズを聞きに行くことができたのは、ほんの少数だった。

(市井にアメリカでも西海岸の、ヨーロッパのジャズについては、さらに情報がなかった)

そして「ニューヨークにジャズを聞きに行くことができたのは、ほんの少数」や「高価なレコードを山ほど買える少数」が、プロフェッショナルな音楽評論家としてマス・メディアに君臨していた。

世はまさに工業生産時代。マス・メディアが「これが次のトレンドだ」とするものをいち早くコピーすることが、街場の音楽評論家のステイタスだった。資金力もなかったから、彼らの実力は「体験」ではなく、雑誌に書いてある文章とデータ、ライブに参加した経験を持つ者も、ほとんどいなかったはずだ。

(そういえば、あくまで「ジャズの本場はアメリカ」で、日本のジャズについての評価も、無下に低かったように思う)

だからこそ、彼らの実力は、音楽についての理解力よりも、言葉としての「楽曲やプレヤーについてのデータ」であり、その感想については「プロフェッショナルな音楽評論家」の語り口のパクリ。実質的に、雑誌をどれだけ読み込んでいるかみたいなことで評価されるようになり、故に「音楽を聴く力」が育つことはなかった。

今の若い人たちは「何年何月、どこでレコーディングされたアルバムの何曲目のギターのリフがどうだ」みたいな観点からはずいぶんと自由。ジャズ・ファンを自称しているのに、坂道系のアイドルを評価するのはおかしいみたいな偏見も過去のもの。

この方向でいけばいいなと思う。

すべての表現、作品の成熟には、たったひとりの偉大なアーティストの出現よりも「受け手」の成熟。言語的、数値的な情報の量を蓄えようとするより、主観を越えて楽曲を評価できる力を身につけること。

実現すれば、この国の文化の状況はもっと豊かになるはず。

ホントに、そう思う。