日本型組織ワーク
アートも、専門家だけで話が済むなら、これほどに拗れた状況に置かれることはなかったろう。でも実際には「資金の執行」を決断する強い立場で「フツウの人」が絡んでくる。彼らだって、その立場を「志願」したわけではなく「人事異動」で、その席を占める。だから事前の知識も経験もなしだ。
しかも、そこにいるのは長くて数年だ。また縁もゆかりもないところに異動していく。
これはお役所でも民間の企業でもそうだ。
これは、第一回目の「あいちトリエンナーレ」を、当時の担当者が語った一冊の冒頭にあった一節。吉田さんも大変だったりうけれど、13億円の予算規模のアート・イベントなのに「文化の仕事とは全く無縁」だった人が担当者なら愛知県民も浮かばれないだろう。
旧来の日本型組織ワークが
時代の要請に合わなくなってきてるんだと思う。
(旧来の工業生産型マニュアル・レーバーは、AIだので「無人化」間わけなんだし)
食品メーカーの開発部門などには、以前から、人事異動のない「専門職」みたいな担当さんがいる会社がたくさんある。たぶん「味」ということについてハイ・クオリティを目指すなら「数年で異動」で維持することが不可能だし「申し送り」が効くようなものではないからだろう。
(「わさビーフ」や「ポッキー」などなど。おかげで日本の「量産品」の美味しさは、ずっと他国の追従を許さないクオリティを保っている)
つまり、世の中が豊かになって、匿名性の高い組織ワークが通じないことがそれぞれの分野に顕在化し始めたのだろう。公共空間への野外彫刻の設置だって、楠木正成公の銅像なら誰も文句を言わない時代と現在はまったく状況が違う。コンテンポラリーなアート作品になると、それが作品なのかどうかの見極めも難しいし、観衆だって、素直にそれを作品として受け入れてくれるかどうかもわからない。そういう時代の変化に無頓着だと、実際に、後から取り返しがつかない問題が起こるようにもなった。
(JR福島駅前に設置された黄色い放射能防護服を着た子供がヘルメットを脱いで左手に抱え、顔に傷を負い、絆創膏を貼り、胸にはガイガー・カウンターを思わせる衣装が施された立体造形作品。これを福島第一原発の事故以来、同市が未だに放射能に汚染されたままだとの印象を与えるとSNSなどで炎上。福島市は撤去に歩踏み切るということがあった。BBC、中国新華社通信までが、これを報じる事態に発達した)
こういう状況に「文化の仕事とは全く無縁だった人」が対応していくのは至難だろうし、一就業者の負担としても大きすぎるもののように思える。
もちろん文化芸術の分野だけでなく、あらゆる分野の業務に「均一なノウハウ」を適用するのは難しくなっており、それぞれに専門性が要求されているのが現在という時代だ。
一刻も早く「日本型組織ワーク」を検証し、アジャストしていかないと時代ととのズレは大きくなり、歪みは溜まり続け、この国の経済にさらに影響を与え、社会の運営にも、もっと実感できるような支障をきたすようになるのだろう。
「文殊の知恵」が効かない仕事を洗い出し、「みんなで」な仕事とは別軸に位置づけること、ホントに「一刻も早く」と思うけれど、この国、「外圧」でもかかるまで、自分じゃ踏ん切りがつけられない国でもあるんだ。原爆が投下されるまで、自分じゃあ戦争も止めることができない国というか。