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都市のこれから

そのうち、郊外の住宅地が、その住宅地のまま、稼ぎ高で言えば、生産拠点になっているのかなと思っている。
柳瀬博一さんのいう「カワセミ都市」、小流域の源流に立地する住宅地、カワセミが戻ってくるような場所。そういうところが、知価生産を中心に、通勤不要の生産拠点になるのでは。都心のマンションだと天井は低いし、壁も床も遮音には難ありだから、知価生産には不向きだし。都心には「思索」に適した空もない。

ただ、都心は既存の生活利便施設が豊富。

欧米ではすでに始まっている「10分コミュニティ」とか「15分コミュニティ」という都市政策は、そうした「既存」をうまく利用して、徒歩圏で生活を賄ってしまおうとするもので、つまり、こちらは、旧来の「ベッドタウン」に近い発想によるもの。「働く」とか「遊ぶ・買い物する」など「訪れる」ための都心ではなく「住む」ための都心。まだ止むことのない「更地にしてから高層化」の「跡地」利用な感じにおいても、そういうことになるんだろう。
「住む」では足りないから、高層ビルが「人工光&水耕栽培な畑になる」という見方もある。まるで「郊外」に「畑」が点在しているような感じか。

知価生産もビジネスも、全ての風は東京から吹いてくるという時代も終わる。もはや会議のために、一つの空間に集まる必要もないし、会議そのものが過去のものになっていく。

かといって、ある町や村に特定の職種の人が集まるばかりでなく、もっと個人力が全国にバラバラに点在するようになるんだろと思う。東京が消えてなくなくなっちゃうってこともないんだろうけど、少なくとも「東京じゃなきゃダメ」ってことはなくなってるだろう。

いずれにしても、長年の不要不急な都心再開発や道路整備、五輪に万博というツケが溜まって、この国はそうとうに貧乏になっているはずだ。政府をはじめとしたお役所の調整力も低下しているから「一億総中流」的に「みんなで貧乏」なんて夢も見れない。
全国に静岡市の人口ほどは点在しているとされる「資産家」は別にしても、労働者階級のなかでも知価生産に従事する「クリエイティブ・クラス」だけでなく、「エッセンシャル・ワーカー」からも、少数の顧客を相手にする保険外診療を専門にするお医者さんや、個人に雇われるフリーランスな介護士さんで年収1千万円級みたいな人が現れるはずだ。

とにかく、今までのように、一斉に学校に入って、卒業が近くなったら一斉に就活して、就職して、定年になったら悠々自適というわけにはいかない。そうやって、自分の人生が点線で描いてあるわけではない。それぞれが、それぞれの力量で食っていくしかないから、つまり、競争は「冪分布」みたいになる。100人で競争したら、ダントツの3人、彼らを含むベスト16くらいが飛び抜けて、あとの84人はビリ周辺に固まる。でも、それで自然なんだからしょうがない。

ただし、「ほぼ全員が勤め人」でなくなるということは、いくつもの「成功」の形があって然るべきだ。日本中に富士山一つしか山が無いというわけではないのと一緒だ。

でも、登るべき山は自分で定めるしかない。勧められる「選択肢」から選べばいいというわけではない(勧められないし)

「私」以外「私」じゃない。その「私」がシールド無しで世間に向き合う。今「社会人」という人も案外経験がないことだ。だって、これまでは、より頑丈なシールドを選んでやってきたわけだから。

でも、そういう時代が、もう始まっちゃったね。

おろおろしているより準備を始めた方がいい。
少しでもいいから。