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「戦後」を卒業すること

パンドラの箱が空いた

大きなウネリになっているのはジャニーさんのことだけなのかもしれないけれど、さまざまな分野で、長い間、忖度のかなたにあって「触らぬ神に祟りなし」の状態にあった事案が、白日の元に晒され、多くの人の耳目を集めている。遅々として進まぬように見える「旧教会」のことだって、はじまったのは安倍さんのおじいちゃんの頃の話しだ(戦後、間も無く)。捜査し裁きをつけようとしてきた人が、何度も跳ね返され、闇に葬り去られてきた案件だ。それが、なかなか「葬り去れる」とはいかない状況になってきている。

(SNSがある時代だというのも大きい。当然ながら、SNSには「明」の部分もある。各地の紛争地、ウクライナでの戦争、その最前線から同時的でリアルな動画を、市井の庶民が発信する。これを国家は完全に統制することができない。明らかに時代はフェーズが変わった)

嚆 矢

こういうことが各分野にある。たいていが「告発」といった色彩がある情報だ(そうした情報が拡散しやすいとも言える)。ゴア元アメリカ副大統領流に言えば「不都合な真実」なのかもしれないし、旧来に従えば「パンドラの箱を開けた」ということなのかもしれない。

東京大学名誉教授で元の日本地震学会会長である島崎邦彦さんが「3.11 大津波の対策を邪魔した男たち」(青志社 2023年3月)という告発本を書かれた。実名で関係者が登場し、いわゆる「原子力ムラ」の歪な構造を批判し、東日本大震災時の原発事故は防げたとし、今も日本各地の原発は、あのときと同じ状況に置かれているという内容だ。
一方、あの森永卓郎さんは、この6月「ザイム真理教 それは信者8000万人の巨大カルト」という本を書かれた。「財務省がいかに国民生活を破壊するか」といった内容の本だが、森永さんによれば、財務省が岸田政権に「従」の関係なんじゃなくて、岸田政権が財務省の傀儡だという。そんな内容だから、森永さんをして大手の出版社からは、ことごとく発刊を断られたらしい。それでも森永さんは出版した。今は平積みにしている書店もある。

そして、サザンオールスターズも「Relay~杜の詩」を唄いはじめた。

比べようもなく、とても小さなことだけれど、僕も自分が目撃してきた行政施策の現場から「不都合な真実」と思われることをZINEにして発行するとともに、これまで40年近く役所の配下で取り組んできた再開発地区に、自分の一般社団法人を設立して、土建な「まちづくり」で完結させようとする企てを、本来の意味の「人々が集まって暮らす場所づくり」=「まちづくり」に戻そうと活動を始めた。

(そういえば、「神宮外苑」のことだけでなく、立石の「呑んべ横丁」あたりの再開発事業など。「反対」の声を、デベロッパーや行政が抑え込めなくなってきているようにも思う。これもSNSの存在が大きな役割を果たしているのだろう。反対派には国境を超えて援軍も現れる。地域住民を抑え込めばいいという時代ではなくなってきている)

さまざまな分野で、メジャー、マイナーを問わず嚆矢が放たれたように思う。分野は違っても文脈は一緒だ。関係者の誰もが周知の事実だったが、表沙汰にすることが憚られていたこと。そうしたことを世間に問う人々が現れ「多数派」が彼らの口を塞ぐ力も弱まり、今はなかったことにすることもできなくなった。ジャニーさんのことのように、周知の事実は周知の事実として、闇に葬り去られるばかりではなくなってきた。

たぶん、人間には「定義」できない「時代」が転換し始めている。様相を変えはじめている。自然の成り行きなのだろう。溜まりに溜まったエネルギーが、ティッピング・ポイントを超えたようでもある。

贖 罪

僕は、親に仕送りをしなきゃいけない大学生なんて聞いたことがない時代にぬくぬくと育ってきた。さんざん外国にも行かせてもらった。

でも今は…

渋谷にある大学に進学して三年、なのに、神楽坂は初めてだという学生がいいる。京都の美大に進学して、これから卒業制作という後輩に会ったら、僕よりも、というか、全く京都を知らなかった。彼らは一様に、学校と寝床とバイト先を点で結んで、その三角形から出ないような生活をしている。せっかく大学生なのに。

申しわけないと思う。

だから、この好機を遠巻きに眺めているわけにはいかない。僕は1961年生まれ。所得倍増計画と共に育ってきた世代。加害の立場にある。まさに「未必の故意」だ。

「新しい戦前」

たぶんね。今度のシンドさは、権力者やその周辺だけでなく、僕らのような庶民の責任までも明確にしていかなくはならないことだ。
前の敗戦では、戦犯に「加害」を集中させ、市井の人々の関与についてはあいまいなまま「騙されていたんだから仕方がない。むしろ、被害者だ」というイメージで包みもした。
こうしたことが、アルビン・トフラー博士をして「実は、戦前・戦中と戦後は地続きだった」といわしめる状況を残し、戦後に屈託を残して、民主主義は未発達のまま(あるいは形骸化して定着)今に閉塞感を残してしまった。
ものづくり大国の残照に浸ってエネルギーや産業の転換に乗り遅れてしまったのも、勤労動員の残り香によるのだろう。しかしながら、もう「集団的な就労」をいつまで続けられるのかも不透明だ。「進め 一億 火の玉だ」が戦後にまで響いて「一億総中流」「一億総活躍社会」とはいってみたけれど、その「一億」が怪しいのだ。

そして、行き詰まって「新しい戦前」である。
昭和恐慌から日中戦争、日米開戦へ。あの頃をまた繰り返そうとしている。

僕らが黙っていてはいけない。ただ抵抗運動は国会議事堂をデモで取り囲むことではないと思っている。もっと「日常」のあり方を変えること、僕らの暮らしぶりを変えることだと思っている。「非日常」は「非日常」だけに、間もなく消え失せる。サスティナブルではない。

「戦後」を卒業する

僕がイメージする「戦後」は高度成長期の、この国だ。
小学校から行進の練習をし、班単位の共同責任。見本が示されて「憶えて慣れる」。求められるのは優秀な複写機としての性能。「みんな」でおとなしく先生に従っていること。
こうした「学校」での経験を礎に、組織の一員となり、マス市場の素直な消費者になる。「みんな」が持ってるなら買ってもらえるのである。

でも、三種の神器の時代も3Cの時代も終わってしまった。テレビなら買うという時代はとっくに終焉している。
その後、消費者は、より安くより高品質で、多様な選択肢を求め続けた。しかし「マス」を前提に生産、市場に供給するスタイルの次を描き切ることができていない。未だに「戦争を止める」のではなく、負けが見えているのにさらに性能がいい戦闘機をつくろうとしている。

そして、わが国は少子高齢化の時代を迎え労働者不足の状況を迎える。

私立の公共政策

これからは時代のアイコンになるとか、時代を牽引するオピニオン・リーダーになるとか、そういうことを目指すことに、あまり意味はないのだろう。
自らの生活の場から、個人商店を創業するように、ビジネスという視座によるものではない、小さな事業をつくっていくことだと思っている。

僕は、この事業で食っていくから、そういう意味では収益事業だ。でも、本当に食っていければいい。利益率を追求するという姿勢で行うのではなく、そういう意味では「有償ボランティア」の域を出ないようにと思っている。

役所とは40年つきあってきた。大学院の専攻は公共政策学。この知見をもとに僕に何ができるか。「役所に提案する」では間に合わないとも思っている。
一方、僕は、オヤジの方で400年以上、オフクロの方でも150年近く、都市に暮らした経験しかない。ふるさと意識というより、ブルデューのいう「ハビトゥス (habitus)」に近い、僕の無意識下に溶け込む「わが家の経験」を活かそうと思っている。

かつての喫茶店のマスター程度のことができればいいと思い、そのために計画を練り、実験を重ねている。

だから現場は都市にある。

都心部では、多様な人々が出会う場所をメイキングしたい。港近くのスナックみたいな場所。名乗らなくても済む場所。新開地ならでは風通しのよさを活かしたchemistryに恵まれる場所のメイキングを目指している。だから「コミュニティ」をメイキングするのではない。コミュニティは中にいる者にとっては「安心のゆりかご」でも、外にいる者にとっては「高い城壁に囲まれた城塞」だ。よそ者だらけの大都市にふさわしいものではない。つまり、ドアを開けると、カウンターにいる常連がいっせいにこちらを一瞥するような場所ではない。

郊外では「孤独」どうやって「孤独」のために、彼らのライフ・デザインをじゃませずに、生活互助のための「HUB」をつくることを考えている。家族がなくても、ここで死ねるという場所。そこは「買い食い」を卒業できる場所でもありたい。

今は、こうしたことを念頭に(それだけではなく人工から人間性をとりもどすために)「畑」を耕し始めている。ビルの屋上農園で初めてジャガイモを収穫したのが2006年。やっと畑にたどり着いた。小さな畑で連作が効くようにと実験を重ねている。住宅地や都心の空き地程度でも、ある程度の自給が可能になるようにと、奥さんにも活躍してもらって

「農はたしなみ」

「郊外」では、そういう都市生活をかたちにしようとしている。

「HUB」を既存のものになぞらえれば、カフェやインのような形になるのかもしれない。ただし、ヴァーチャルに留めおくつもりはない。左脳的な言語情報や画像のやり取りだけで、寂しさを埋めきることはできないし、居心地をメイキングすることもできない。

みんなで港を肴に、郊外では畑を耕しながら交流する。

港近くの再開発地区で30年近く仕事をし、今は準備には10年くらいかけて「郊外」に引っ越してきて5年になる。

「農はたしなみ」は、いつか都心部にも持ち込みたい。

すでに友人のデザイナーは、東京都心で、住宅と住宅の間の90cmほどの幅の土地で畑を楽しんでいる。

もう風向きは変わっているんだ。

フィクションを現実化して喜んでいる時代は終わった。僕らはリアルに即して、だからこそ、自然とともに生きていくべきだ。これ以上、フィクションの膨張をそのままにしてはならない。

未来のために。よきレイヤーを重ねていくために。