
病からの回復を繰り返すこと
1月は身体が危機に曝された月だった。上旬は風邪をひいて扁桃炎になり、ひどい痛みで飲み物でさえ喉を通らない。悪寒もありどうしようもなかったが、熱はほとんどないので仕事を休むわけにもいかず毎日働いた。しばらく経っても痛みは治らないので病院に行き薬を処方してもらった。その日は薬を飲み込むことさえ苦しかったが、次の日には随分と回復していたのでびっくりした。
喉が良くなって安心したのも束の間、1月下旬に走ったマラソンのせいで、次は下半身の激痛に悩まされることになった。
直後はほとんど歩けない状態になり、翌朝に足を見てみると、左足は真っ赤に腫れ上がり、右足には血豆のようなものができていた。起き上がるのがつらかったものの、ちょうどその日は健康診断が朝から入っており、この歩けない足で行けば渋滞を引き起こし、他の受診者たちに奇異な目で見られるのではないかと憂鬱な朝であった。結局、この脚の痛みから完全に回復するには2週間かかった。
この記事を書いている今はすっかり健康だ。この好調を失いたくないので、一過的にいつもより慎重に日々を送っているアホである。
さて、病から治癒していく過程というのは非常に幸福である。私は病にはなりたくないが、病というのは生きている以上避けがたい。私自身、生まれてから何度病に苦しんだかもう数えきれない。もう一生同じ目には遭いたくないと毎度強く思う。ところがまたなるのである。
病になると途端に活力が萎んでいく。健康を突き破ったこの来訪者は周囲を瞬く間に蝕み、身体のみならず人の精神までをも飲み込んでいく。ポジティブだった心はネガティブになり、思考様式や行動様式をますます病人らしくする。これを「指数関数的な衰弱」と呼ぶことにする。しかし人生の経験的事実として、この無頼はやがて必ずどこかへ消えていくのである。これをサポートするのは自らの生命力、現代医学の力、周囲の人、そして時間の力である。ある点を境にして、なんだか昨日より調子がいい気がしはじめ、そうすると瞬く間に回復に転じる。そして最終的には元の健康が復元される。これを「指数関数的な回復」と呼ぶことにする。
私の経験上、病、特に急性疾患はだいたいこの指数関数的な衰弱と回復をセットで含む。このような感覚はおそらくみんなが持っている。扁桃炎で喉が痛くても耐え忍ぶことができるのは、この痛みはきっといつかなくなると心の底から信じているからである。希望があるのである。そしてこの希望は他人に教えられたものではなく、自らの人生の実感と経験を持って体得された希望である。それゆえに揺らぐことがない。案の定、指数関数的な回復に入ると、やっと一縷の光を見つけたという安堵と、また衰弱期に戻るのではないかという不安が入り混じった精神状態の中、藁にもすがる思いで回復を目指す。この治癒期は、昨日よりも今日、今日よりも明日、どんどん体調が良くなっていく幸福な時間である。
病からの治癒期にはこうした上昇を経験するが、子供はこの情緒を同じように感じることがない。子供の成長は生まれてから一本調子であり、常に上昇している。それは当たり前であり、上昇しているからといってそれ自体に実感を持って幸福を感じることはできない。病になっても過去の経験が不足しているため、その過程を顧みることがない。成熟した大人は安定期に入っており、日々生命力の上昇を感じる機会は少ない。しかも多くの病を経て、健康がどれほど尊いか知っている。病にはもちろんなりたくない。しかし、生物学的に成熟した大人にとって、病というのは指数関数的な上昇を味わわせてくれる、割と頻繁に起こる、数少ないイベントの一つであると考えることもできる。
病における生命力の衰弱と回復は、人生全体からすれば微視的な出来事である(特に風邪などの急性疾患)。一方で、巨視的に人生を眺めれば、誕生から指数関数的に上昇した生命力は、青年期に最大値をとって、その後は徐々に下降していく。この抗しがたい大きな流れの中で、瀬と澱み、上昇と下降を繰り返しながら、私たちはいつか来る今世との別れに向かって進んでいる。大きな流れに気づくことは少ないが、小さな流れを捉え味わうことは容易い。これからも病の経験を積み重ね、その度に生命の発揚を感じることで、生涯希望を失わないようにしたいものである。