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愛する人を愛するために最高のパフォーマンスを発揮する、ということ。

愛ってなんだろう、という話を気のおけない仲間と語らうことが多い。

愛ってなんだろう。
ざっくりしたこの問いから紡がれる言葉は、自分に生きている意味を与え続けているように思える。

人によってなんだかんだ違う十人十色の価値観をゆるゆると自分の言葉で伝え合う時間は生きている中のほとんどのすべき何かよりも重要であるかのように思える。

愛を経験したことがあるか?

確かに経験した。実感した。

5年前に。


5年前、それは自分にとって大きな機転となったのは間違いない。

5年前までの自分を思い起こした時、劣等感、虚栄心、子供であればたいていの人が思っていたであろう「自分は他の人とは違う」なんて幼心を大人になっても離せないで持っていた。

大学へ入るために勉強に明け暮れていた時も、
新卒としてネクタイを首に巻いて営業マンをしていた時も、
友達やパートナーなど付き合う相手を選ぶ時でさえ、
他の人より優れていなければならない、というプライド超高いマンだった。

他の人に認められるために、
親や知人に「すごいね」「君は特別なんだ」って
思われたいがために、頑張っていた。

常に人の目を気にしいで、自分っていうものがなかったような感じがする。

人と比べては一喜一憂。そこそこの大学に受かった時も、営業マンで成績が抜群に良くて周りからもてはやされても、その満足感は一時の満足に過ぎなかった。

ココロの器に、大きな穴がたくさん空いているようだった。
自分を満たす承認という水を注いでも、あまりにも穴が大きすぎる。それは非常に虚しいものだった。いつも心はカラッカラで、孤独と虚しさで蝕まれている感覚。

けど、ある時、5年前出会った当時のパートナーは
「あなたはあなたのままでいいんよ」とずっと言ってくれた。

まるで母親のように、
できればみたくない自分の醜いと思った姿、振る舞い、言葉さえも全てを許してくれた。
そして、その子は見放さずずっと自分のそばにいてくれた。

そのうちに、だんだんと
「このまんまの自分でもいいんだ。」と思う。

自分の好きなところはもちろん、
嫌いなところや後悔している過去すらも愛おしい。
そんな感覚になった。

不思議な気持ちだった。

確かにあの時、愛を受けとり続けていた。

しかし、愛にカタチがあるなら、それは知っていた。

母親から、似たような愛を受け取っていたからだ。

愛の溜まる器があるなら、それは母からもらっていた。
気づかないフリをしていただけで。

そして、当時のパートナーはその器に気づかせてくれて、いつのまにか空いてしまっていた穴を埋めてくれた。


そしていつの日か、自分も同じように不安や孤独を感じて自分らしくあることから目を背けてしまう人へ。

認め、安心させてあげる拠り所として、
そして結果的に相手の成長を促せる人でありたいと強く思うようになった。


本当のあなたが、
ありたい自分を隠してしまわないように。

自分の人生の責任が、
自分にあることを喜びとする人間であるように。


それから、自分のチャレンジが始まっている。


どれだけの多くの人や大きな範囲に
どれだけ深く、長く
愛をギブし続けることができるのか。


昔の自分のように、自分を受け入れられなかったり、
何をしても拭えない孤独感で埋もれてしまってる人を、
何とか安心させてあげられるような
すぐに力になれるような心持ちって何だろう。

愛するっていうのは、責任があることだ。
相手の人生を、変えかねない。
だからしっかりと考える。
気分で感情だけで愛することは難しい。


二つ大事だなと思うのは、整っている自分であること、余白をもつこと。

自分を頼ろうとする人がいるとき、そのタイミングで、
その人の拠り所であるためには準備が肝要だ。

急遽明日念願のテレビのネタ出演が決まったという芸人が、前日にトークの練習、発生練習、空気の掴み方、フリの仕込みを考えたり、体調を崩したりしていては、うまくはいかないだろう。
全力を出そうと思っていても、全力ですことはできても、刃は常に研いでいなければならない。

また、スケジュールがいっぱいの人であれば、なくなく断念せざるをえないかもしれない。

忙し過ぎて気づかないのも問題だ。センサーは敏感でありたい。自分が何かに縛られていたり、自分のことで精一杯
なのであれば、人のためにすぐ行動することはできない。

そのため自由であることも重要だ。


愛すること。
それは、相手の支援と成長を願い、エネルギーも時間など、自分の資源を費やすこと。

費やすエネルギーも時間も、浪費してはならない。

とことん徹底したプロ愛師でありたい。


自分を愛せない人に人を愛することは難しい。


スタンスにも気を止めたい。

DOではなく、BE。

私の愛の師匠は栃木県足利市の織姫神社だ。
拠り所として、持続的に安定的に自律的に存在しているように思う。

神社に拠り所感を感じるのは、なんとなくその雰囲気を醸し出し、雨が降る日も風が吹く日も、常に同じ場所でずっと存在し、高い位置から街なみを黙って見おろしている。

愛は、そうするものではなく、ただただあるもの。習慣でありたい。そう自然と体が動くもの。考えてしまうもの。

守るために

誰かが守ってほしいって言ったとき、「わかりました。今から守れるように筋トレします」では遅い。
今、愛している人がいようがいまいが、常に今、成長していること。

いろんな人と関わりを持ってたくさんの価値観とふれ、信念はブラさずに、様々なものとふれ、チャレンジして、規制の枠を壊して、心の器を大きくしていく。

また、今のうちからたくさんたくさん表現していく。
このボイスもそう。
言葉を必要としている人が必要なタイミングで伝えられるように、
アウトプットという鍛錬をする。

人と接するでは大事な1つを。それは集中。
人と向き合うとき、今その人エネルギーと時間を目一杯注ぐ傾聴と対話を心がけること。

すると気づく。知れば知るほど、面白いほどに、わからなくなっていく。奥が深いことに気づいていく。
わかった気にならないこと。昨日のその人と今日のその人は違う表情や感情を見せる。受け入れよう。
毎度、知った気にならずに、関心を向け続け、知っていき、尊重することと、そして配慮をすること。
愛するには、ずっとという責任があるように思う。
拠り所であるためにできることはたくさんある。


自分はできるだけ必要としている人に、
エネルギーや時間や知識や知恵などをプレゼントしたい。
そんな自分でいたい。

もし、この想いに共感して学んでいこうという人がいたら、ぜひ一緒に語らい合いたいと思う。ぜひ、メッセージでもいただけたのなら嬉しい。


愛するために最大限自分ができること。それをするだけ。だが、難しい。

願わくば、届けたい。

人を、自分を他人を、
あなたらしい方法で、愛せる人へ。

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