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支配と抵抗

支配者に抵抗して勝って支配者となるのか、負けて奴隷となるのかの選択だけならば、負けるわけにはいかない。

負けても奴隷にならない、勝っても支配者にならない保証はないのです。引き分けに持ち込んで平等の立場となって物事にあたる道はないものでしょうか?

片方が圧倒的な強さを持てば、争い事はなく支配者と奴隷の関係になるのです。奴隷が圧倒的な強さを持っておれば争い事がなく立場が逆転するのです。支配者と奴隷の関係は、なくなる事はないのです。

支配者に抵抗するのは、支配者に圧倒的な強さがないからです。反社会的な活動が無くならないのは社会に圧倒的な強さがないからです。

圧倒的な強さとは、力ではなく信念です。責任感です。有言実行する行動力です。反論できない確かさと実績があり、信頼できて期待しても良いと思わせる事なのです。結果重視ではなく途中重視なのです。手順を示して導いてそれに従えば将来を画く事ができる事なのです。

圧倒的な強さとは、相手の構想に従えば未来が保証されていて信用できる事なのです。戦っても勝ち目が無いと思わせる事なのです。

圧倒的な強さを突きつけられた時は、従うしか無いのです。相手に従うと自分の未来は無いと思った時は、どんなに強い相手でも抵抗するでしょう。こちらが圧倒的な強さを持つ事ができたならば、争う事なく従ってくれるのです。

生きるか死ぬかの瀬戸際では、支配者も奴隷も平等です。沢山の財産があったとしても借金だらけでも、死んでしまえば、「無」なのです。残された遺族も死んでしまえば「無」で生きている間が「有」なのです。

支配者は、死んでも「有」であり続けたいと無茶を願うのです。
生きている間に、他人の「有」を奪って自分の「無」を「有」にできると信じているのです。

奴隷とは、「有」を奪われて抵抗できなくなった状態ですが、「有」を全て奪う事はできないのです。奪い切ってしまうと死んでしまって「有」を奪う事ができなくなるのです。

生かさず殺さず定期的に奪うのが支配者なのです。抵抗しても立場が変わる事はありません。圧倒的な強さを持たなければならないのです。

自分が奴隷だと気付いたならば、争はない事です。圧倒的な強さを持つようになれば良いのです。腕力や暴力では無い圧倒的な強さとは、戦っても勝ち目が無いと思わせる事です。

いぬの遠吠えでも威嚇でもなく、優しい威厳です。

抵抗したいと思う気持ちが支配の連鎖で奴隷を生むのです。従って良いと思う気持ちを持ってもらうのが、支配からの解放です。

未来への道標を示して、それを信じて従う人を信者と言います。信じない人を異教徒と言って迫害するのです。

争う事が無い圧倒的な強さでは無いのに信者を増やすから、争うことになるのです。

圧倒的な強さとは戦っても勝ち目が無いと思ってしまう強さです。
負けるとわかっていても挑み続ける人は、反抗する奴隷です。
勝って当然だけど全力を尽くす人は、挑み続ける支配者です。

圧倒的な強さを持つ為には、人徳がなければなりません。人徳とは、品性と知性の事です。支配から逃れたければ抵抗するのではなく、圧倒的な強さを知りそれに近づく努力をするべきなのです。

抵抗する奴隷を支配者にしてはいけません。圧倒的な強さに従うのです。
それが自然の流れです。

追記

圧倒的な強さを人類は手に入れる事はできません。地震、雷、火事、台風に反逆する事はできないのです。だから被害を少なくする対応をするのです。共存の道です。圧倒的な強さとは歴史の流れです。支配者はいつまでも支配者でいられないのが歴史の流れなのです。代わりの支配者が現れて違う形の支配が始まるのです。

支配と抵抗を終わらせて、共存共栄という新しい形に移行しなければなりませんが、共存共栄が、圧倒的な強さになるのかはわたしには、わかりません。

圧倒的な強さとは思想、哲学、で、宗教では無いと思うのです。宗教とは支配に無条件に従えば幸せになる教えです。ですから支配に抵抗する人を異教徒だとして排除しようとするのです。

宗教家は、それに気づいて哲学に移行してきています。コロナウイルスは、圧倒的な強さで迫ってくるのです。地震を抑え込む事ができないように生死を自然の流れとして受け止めなければいけないのです。永遠に続く事が無いからこそ今を大切に生きるように応援しあうのです。

圧倒的な強さとは答えのない問いの答えなのかもしれません。

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