神様のいたずらと仏様のいたずらに人間は翻弄されるのです。今日の写真、カレーのトッピングはコロッケです。
運命があるのなら、そこに人間は介入できるのでしょうか?
運命とは人生の道筋が決まっていてそこから外れることはないという考え方です。運命が決まっていたとしてもそれを人は事前に知ることはできないのです。
運命としてよく使わられる言葉で「運命の人との出会い」があります。
運命の人との出会いを求めてもそれが「運命の人」だとわかるのは結果が出てからであってそのような出会いだと思わせるのは神様のいたずらです。
運命があると思うのは自分の力ではどうしようもない結果になったと思う時です。結果が運命で決まっていると思うから努力も進歩も好んでしなくなるのです。
働かなくても一定の給料がもらえるのなら働きません。働いた分だけ給料がもらえるのなら頑張って働きます。頑張って働いても納得のいかない給料ならば頑張らなくなるのです。運命は頑張っても納得のいかない給料と同じで自分の評価とは異なっているのです。
運が良ければ良い運命になると信じて、開運だとか縁担ぎ、縁結びの神様にお願いするのです。運命があると思わせるのは仏様のいたずらです。
過去から未来に続く一本道が運命で、人生はその道を歩むことだと信じているのです。道を歩むイメージはわかりやすくて良いのですが、一本道ではなく分かれ道がたくさんあって自分で分かれ道だと気づきそして選ばなければいけないのです。
分かれ道は学ぶことで気づくのです。学ぶことで進歩するのです。進歩とは進む歩くと書きます。なぜ学ぶのでしょうか?それは目的地に進むために歩むのです。そして目的もなく歩むのは学ぶとは言わないのです。
何のために学ぶのでしょうか?学ぶことが目的で学ぶのは身につかない学びです。
人を愛することで学ぶことが多くあるのです。神様のいたずらで出会い。仏様のいたずらで悩むのです。それが人生です。それが運命です。