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森鴎外『舞姫』現代語訳

森鴎外の『舞姫』を現代語に翻訳してみましたので公開します。翻訳文には原文にない見出しを付けて章分けを行い、読者の理解を助ける工夫をしました。原作の雰囲気を味わって頂ければ幸いです。

豊太郎の旅路(セイゴン・ブリンヂイシイ・ベルリン) (© OpenStreetMap contributors)
『舞姫』の舞台となったベルリンの中心市街地 (© OpenStreetMap contributors)

登場人物

『舞姫』の登場人物
  • 太田豊太郎(おおたとよたろう)
    エリスの恋人。19歳で東大法学科を卒業し、官僚になります。22歳の時、ドイツのベルリンへ出張(留学)しました。エリスに出会ったのは25歳前後です。語学能力を天方伯爵に認められ、いっしょに日本へ帰ることになります。 

  • エリス
    ヴィクトリア座の女優(踊り子)。17歳の頃、父の葬儀費用を払えなくて困っているところを豊太郎に助けられ、恋愛関係になります。のちに豊太郎の子を懐妊しますが、日本に帰る豊太郎に裏切られたと絶望して発狂してしまいます。

  • 相沢謙吉(あいざわけんきち)
    豊太郎の友人で、天方伯の秘書官。豊太郎が役所の仕事をクビになった時、新聞社の仕事を紹介しました。また、豊太郎の能力を見込んで天方伯に推薦しました。 

  • 天方伯(あまがたはく)
    大臣。豊太郎にドイツ語翻訳の仕事をさせるうち、その能力を評価するようになり、結局、豊太郎を連れて日本へ帰国することになります。


帰国の船内にて

 石炭を早くも積み終えた。中等室の机のあたりはたいへん静かで、電燈の光が晴ればれとしているのもむなしい。今夜は、毎晩ここに集まってくるカルタ仲間も「ホテル」に宿泊しており、船内に残っているのは私ひとりのみだからだ。5年前のことであったが、長年の望みがかなって、ヨーロッパへ渡航せよとの官命をいただき、このセイゴンの港まで来たときは、目に見るもの、耳に聞くもの、ひとつも新しくないものはなく、筆にまかせて書きしるした紀行文は毎日何千のことばにつらなっただろうか、当時の新聞に掲載されて、世のなかの人にもてはやされたけれど、今日になって思うと、おさない思想、身のほどしらずの放言、たいしたことのない動植物や鉱物、また、風俗などまでも珍しげに書き記したのを、分別ある人はどのように見ただろうか。今回は旅に出たとき、「日記を書こう」と思って買った冊子もまだ白紙のままなのは、ドイツで学問をしたあいだに、一種の「ニル、アドミラリイ(※なにごとにも驚かない冷淡さ)」の心をはぐくんだのだろうか。そうではない。これには別の理由がある。
 実際に日本に帰る今の私は、ドイツにわたった昔の私ではない。学問こそなお心に飽きたらないところも多いが、世間の浮きしずみも知った。人の心の信じがたいことは言うまでもなく、私と私の心までも変わりやすいことも知った。昨日は「よい」とされたことが今日は「よくない」とされる瞬間の私の感触を、文字にあらわして誰に見せることができようか。これが日記を書けない理由だろうか、そうではない。これには別の理由がある。
 ああ、ブリンヂイシイ(※イタリアの町)の港を出てから、はや二十日あまりが経った。世の常ならば初対面の乗客にも交際して、旅の憂さをなぐさめあうのが航海の習いだが、病気を言いわけにして部屋のなかにばかりこもって、同行の人々にも言葉をかわすことが少ないのは、誰も知らない未練に頭ばかり悩ましていたからである。この未練は、はじめのうちは、少しの雲のように私の心をかすめて、私にスイスの山の景色も見せず、イタリアの遺跡にも関心をおこさせなかった。つぎには、世の中を嫌ったり自分自身をむなしいと思ったりして腸が何度も回転する、そのような苦痛を私に背負わせた。そして今となっては、私の心の奥にこりかたまって、ただ一点のかげとなっているけれど、私が書物を読むたびに、ものを見るたびに、鏡にうつる姿やこだまのように、私にかぎりない追懐の気持ちをよびおこさせて、何度となく心を苦しめる。ああ、どのようにしてこの未練を消そうか。もしほかの未練ならば、漢詩のなかに詠みこんだり和歌のなかに詠みこんだりしたあとは、心はきっとすがすがしくもなるだろう。しかしこの未練ばかりはあまりに深く私の心にきざみつけられたので、そうではあるまいと思うのだが、今夜はあたりに人もいないし、ボーイが電気線のかぎを回しに来るまでに時間もあるだろうから、どれ、その概略を書いてみよう。

太田豊太郎のベルリン行き

 私は幼いころからきびしい家庭教育を受けた甲斐あって、父を早くに失ったけれど、学問をおこたることなく、故郷の学校にいたときも、東京にやってきて予備校(※東京大学予備門か)にかよったときも、大学法学部に入ったあとも、太田豊太郎という名前はいつも学年のはじめにしるされており、一人っ子の私を力にして生きる母の心をなぐさめたことだ。19の歳には学士の称号を受けて、大学はじまって以来またとない名誉であると人にも言われ、□□省で働くようになり、故郷の母を東京によびむかえ、楽しい日々をすごすこと3年ほど、官長の評判が格別だったので、ヨーロッパへ渡航して一課の事務を取り調べよとの命令を受け、有名になるのも、家を盛んにするのも、「今だ」と思う心が勇み立って、50才をこえた母に別れるのをそれほどまで悲しいとは思わず、はるばると家をはなれてベルリンの都に来た。
 私はぼんやりとした功名の気持ちと、節制に慣れた勉強力を持って、さっそくこのヨーロッパの新大都の中央に立った。どのような光彩であるか、私の目を射ようとするのは。どのような色沢であるか、私の心をまどわそうとするのは。「菩提樹の下」と翻訳するときは、暗くてしずかなところなのだろうと思われるけれど、髪の毛のようにまっすぐな大通りである「ウンテル・デン・リンデン(※ベルリン市街の大通りの名前で、菩提樹の下という意味)」に来て、道の両側にある石だたみの上を歩く男女を見よ。まだヴィルヘルム1世(※1797~1888年)が宮殿の窓によりかかって街の様子をながめていた時代だったので、胸が張り、肩がそびえたった将校がさまざまの色に飾りたてた礼服を身につけているのや、美しい少女がパリをまねたよそおいをしているのなど、いずれも目を驚かせないものはない。そのうえ、車道のアスファルトの上を音も立てずに走るいろいろの馬車、雲に届くほどにそびえる建物の少しとぎれたところには、晴れた空に夕立の音を聞かせてみなぎり落ちる噴水の水、遠くをながめるとブランデンブルク門をへだてて緑の木々が枝をさし交わしている中から、空のなかに浮かびあがった凱旋塔の女神像、これらたくさんの景物が目前に集まっているので、はじめてここに来た人がいちいち反応するゆとりがないのももっともである。だが私の胸には、たとえどのような場所にやってきても、はかない美観に心を動かすまいという誓いがあって、つねに私を襲う外物をさえぎり留めていた。
 私が馬車の鈴なわを引き鳴らして、お目見えを通し、□□省の紹介状を出して到着の意を告げたプロイセンの官員は、みな、快く私を迎え、「公使館からの手続きさえ滞りなく済んだならば、何でも、教えもし、伝えもしよう」と約束した。喜ばしいのは、私の故郷で、ドイツ、フランスの言葉を学んだことである。彼らははじめて私に会ったとき、いつどこでこのように習得したのかと訊かないことはなかった。
 そして、公務のひまのあるたびに、あらかじめ□□省の許しを得ていたので、ベルリンの大学に入って政治学を修めようと、名前を帳面に記させた。
 ひと月ふた月と過ごすうちに、公務の打ち合わせも済んで、取り調べもしだいにはかどっていくので、急ぎのことを報告書に作って送り、そうではないことを写しとどめて、けっきょくどれくらいの分量になったのだろうか。大学のほうでは、未熟な心に思い計るように、政治家になるのに適当な科目のあるはずもなく、これかあれかと心まよいながらも、二三人の法学者の講義に参加することに思いさだめて、受講料を収め、出席して聴いた。

出張(留学)3年、ベルリンの孤独な生活

 こうして3年ほどは夢のように経ったが、ある時期が来ると隠しても隠しきれないのは人の好みだからだろう、私は父の遺言を守り、母の教えに従い、人が神童だなどと褒めるのがうれしくて勉学にはげんだときから、官長が「よい働き手を得た」とはげますのに喜んでたゆみなく働いたときまで、ただ受動的、器械的の人物になって自然とわからなかったが、いま25歳になって、すでに長くこの自由な大学の空気に触れたからだろうか、心の中がなんとなく穏やかでなく、奥ふかく沈んでいた本当の私は、しだいに表にあらわれて、昨日までの私らしくない私を攻めるのに似ている。私は自分が今の世に活躍する政治家になるにもふさわしくなく、また法典をじゅうぶんに覚えて罪人に裁きをくだす法律家になるにもふさわしくないことを心得ていると思った。私がひそかに思うに、母は私を生きた辞書にしようとし、官長は私を生きた法律にしようとしたのだろうか。辞書であるのはそれでも我慢できるけれど、法律であるのはたえられない。今まではこまかい問題にも、たいへん丁寧に返事していた私が、このころから官長に送る文書にはむやみに法政のそれぞれの項目にこだわるべきでないことを論じて、「せめて一度だけでも法の精神を得たならば、入り乱れたすべてのことは竹をわったように解決するだろう」などと大きなことを言った。また大学では法学科の講義をよそにして、歴史文学に心を寄せ、しだいに佳境に入った。
 官長ははじめから意のままに使える器械を作ろうとしたのだろう。独立の思想をいだいて、ひとなみ外れた顔つきをした男をどうして喜ぶだろうか、いや、喜ばない。危ないのは私の当時の地位であった。しかしこれだけでは、やはり私の地位をくつがえすにはおよばなかっただろうが、日ごろベルリンの留学生のなかに、ある勢力がある人々と私のあいだに、愉快でない関係があって、その人々は私をうたがい、またとうとう私を悪く言い陥れる事態になった。しかし、このことも理由がないことだろうか、いや、そうではない。
 その人々は私がともにビールのさかずきもあげず、ビリヤードのキューも取らないのを、頑固な心と欲をおさえる力のためだと考えて、一方では悪く言い、一方では憎んでいたのだろう。しかし、これは私を知らないからだ。ああ、この理由は、私でさえ知らなかったから、どうして他人に知られることがあろうか。私の心はあのねむの木という木の葉に似て、何かが触れると縮んで避けようとする。私の心は処女に似ている。私がおさないころから年上の人の教えを守って、学問の道をたどったのも、役人の道を歩んだのも、すべて勇気があってできたのではなく、忍耐と勉強の力と見られたのも、すべて自分をいつわり、他人までもいつわったからで、他人が私にたどらせる道を、ただひたすらにたどっただけだ。ほかに心が移らなかったのは、ほかのものを捨ててかえりみるほどの勇気があったからではなく、ただほかのものを恐れて自分で自分の手足をしばっただけだ。故郷を出立するまえにも、自分が役に立つ人物であることを疑わず、また自分の心がじゅうぶんに我慢できることも深く信じていた。ああ、それも少しのあいだ。船が横浜を離れるまでは、すばらしい豪傑と思った私も、こらえきれない涙でハンカチを濡らしていたことを我ながら「みぐるしい」と思ったが、これはむしろ私の本性だったのだろう。この心は生まれながらだったろうか、また早くに父をうしなって母の手で育てられたために生じたのだろうか。
 あの人々のばかにして笑うのはそのようなことである。しかし、くやしく思うのは不十分ではないか。この弱くかわいそうな心を。
 赤く白く顔をぬって、かがやくような色の服を着て、喫茶店にすわって客をひく女を見るときは、ちかよってこれにつきしたがう勇気がなく、背の高い帽子をかぶって、めがねに鼻をはさませて、プロイセンでは貴族のように見える鼻音で何か言う「レエベマン(※遊び人、ゲイボーイ)」を見るときは、近寄ってこれとあそぶ勇気がない。これらの勇気がないので、あの活発な同郷の人々とつきあう理由もない。つきあいを嫌うこの性格のため、あの人々はたんに私をわるく言い、私をにくむだけでなく、また私をうたがうこととなった。これこそ私が冤罪を背負って、すこしの間にたくさんの苦しみをあじわいつくすなかだちだったのだ。

エリスに出会う

 ある日の夕暮れだったが、私は公園を散歩して、「ウンテル・デン・リンデン」の大通りを通って、モンビシュウ街の私の住まいに帰ろうと、クロステル街にある古い寺院のまえに来た。私はあの街灯の海をわたってきて、このせまくうす暗い小道に入り、建物の手すりに干してあるシーツや肌着などをまだ取り入れていない家や、ほおひげの長いユダヤ教徒のおじいさんが戸のまえにたたずんでいる居酒屋や、そして、ひとつのはしごはまっすぐ高いところにとどく一方で、ほかのはしごはあなぐら住まいの鍛冶屋の家に通じている貸家など、それらにむかって、凹の字のかたちにひっこんで建てられている三百年前の遺跡をながめるたびに、心が恍惚となってすこしの間たたずんだことが何度あったかわからない。
 今まさにこの場所を通ろうとするとき、閉まった寺院のとびらによりかかって、声をしのんで泣くひとりの少女がいるのを見た。年は16か17才だろう。かぶった頭巾から出ている髪の毛の色は、うすい黄金色で、着ている服は「垢がついてよごれている」とも見えない。私の足音におどろいてふりかえった顔は、私に詩人のような筆の力がないからこれを書けそうもない。この青く美しい、何か問いたそうに嘆きをふくんでいる目で、なかば涙の露をとどめる長いまつ毛におおわれている目は、どうして一目見ただけで用心深い私の心の底までつらぬいたのか。
 彼女は思いもよらない深い嘆きに遭遇して、前後をふりかえるひまもなく、ここに立って泣くのだろうか。私の臆病な心はあわれみの気持ちに負けて、私は無意識のうちにそばにちかより、「なぜ泣いていらっしゃるのですか。ここらあたりに知り合いのいない他人なら、かえって力を貸しやすいこともあるでしょう。」と言葉をかけたが、われながら自分の大胆なことにおどろいた。
 彼女はおどろいて私の黄色い顔をじっと見つめたが、私の正直な心は表情にあらわれていたのだろうか。「あなたはよい人だと思う。あの人のようにひどくはあるまい。そして私の母のように。」少しのあいだ枯れた涙の泉はふたたびあふれて愛らしいほおを流れ落ちた。
 「私をお助けください、あなた様。私が立派でない人になろうとするのをお助け下さい。母は、私が言うことを聞かないからと言って、私をたたきました。父は死にました。明日は葬儀をしなくてはならないのに、うちには一銭の貯金さえないのです。」
 あとはすすり泣きの声ばかりである。私の目はこのうつむいている少女のふるえるうなじにばかりそそがれている。
 「あなたの家に送っていこうから、なにはともあれ心をおしずめなさい。声をほかの人にお聞かせなさるな。ここは道路だから。」彼女はしばらく話をするうちに、無意識に私の肩によりかかったが、このときふと頭をもちあげ、そしてはじめて私を見たように、きまりわるく思って私のそばをとびのいた。
 人に見られるのがいやなので、あしばやに行く少女のあとについて、寺院のすじむかいにある大きなとびらをくぐると、欠けた石のはしごがある。これをのぼって、4階目に腰を折ってくぐることができるくらいの戸がある。少女は、さびている針金で、さきをねじ曲げてある針金に、手をかけてつよく引いたところ、中からはしわがれたおばあさんの声がして、「だれだ」とたずねた。「エリスが帰った」と答える間もなく、戸をあらあらしくひきあけたのは、なかば白くなった髪の毛、わるい外見ではないけれど、貧苦のあとをひたいにきざんだ顔のおばあさんで、古い綿織物の服を着て、よごれた上靴をはいている。エリスが私におじぎして入るのを、おばあさんは待ちかねたように、戸をはげしく閉めきった。
 私はしばらくぼう然として立っていたが、ふとランプの光にすかして戸を見ると、「エルンスト・ワイゲルト」とうるしで書いて、下に仕立物師と記してある。これは「死んだ」と言う少女の父の名だろう。うちには言いあらそうような声が聞こえたが、またしずかになって戸はふたたび開いた。さきほどのおばあさんは丁寧にみずからの無礼のふるまいを謝って、私をむかえいれた。戸のなかは台所で、右のほうの低い窓に、まっしろに洗った麻布をかけている。左のほうにはそまつに積みあげたレンガのかまどがある。正面の一室の戸はなかば開いているが、なかには白い布でおおった寝床がある。横になっているのは亡くなった人だろう。かまどのそばにある戸を開いて私をまねき入れた。この場所はいわゆる「マンサルド」式屋根の街に面した一間なので、天井もない。すみの屋根裏から窓にむかってななめにくだったはりを、紙で張った下の、立てば頭がぶつかるであろうところに寝床がある。中央のつくえには美しい敷き物をかけて、うえには書物二三冊と写真帖をならべ、花びんにはここに似あわない高価な花たばを入れている。そのそばに少女は恥ずかしそうに立っている。
 彼女はたいへん美しい。乳のような色の顔は明かりに映って、うす紅の色にほおを染めている。手足がかぼそくてしなやかなのは、まずしい家の女らしくない。おばあさんの部屋を出たあとなので、少女はすこしなまった言葉で言う。「おゆるしください。あなたをここまで連れてきた無分別を。あなたはよい人なのでしょう。私をまさかお恨みなさるまい。明日にせまるのは父の葬儀、頼りに思ったシヤウムベルヒ、あなたは彼をご存じないでしょうか。彼はヴィクトリア座という劇場の座長である。彼に雇われてから、はやくも2年になるので、『何事もなく私たちを助けるだろう』と思ったが、人のなげきに付けこんで、身勝手な言いかけをしようとは。私をお助けください、あなた様。お金をすくない給料からさし引いてお返しいたしましょう。たとえ私の身が食べていかれなくても。それも叶わなければ母の言葉に。」彼女は涙ぐんで体をふるわせている。その見あげている目には、人に「いやだ」と言わせない媚態がある。この目のはたらきは気づいていてするのだろうか、それとも自分では気づかずにするのだろうか。
 私のポケットにはいくつかマルクの銀貨があるけれど、それでは足りようはずもないので、私は時計をはずしてつくえのうえに置いた。「これでいっときの急をしのぎなさい。質屋の使いがモンビシユウ街3番地に太田をたずねてくるときには代金をやるから。」
 少女はおどろいて感動したようすに見えて、私がわかれのために出した手をくちびるにあてて、はらはらと落ちるあつい涙を私の手の甲にそそいだ。

官職を解かれエリスと関係をもつ

 ああ、何の悪い結果をもたらす原因だろう。この恩に礼を言おうと、みずから私の住まいに来た少女は、シヨオペンハウエルを右に置いて、シルレル(※シラー)を左に置いて、一日中じっと座っている私の読書の窓のそばに、一輪の名花を咲かせていた。このときをはじまりとして、私と少女との付き合いはしだいに頻繁になっていって、同郷の人にまでも知られてしまったので、彼らははやがてんして、私を「欲情を舞姫のむれにあさるもの」とした。私たちふたりのあいだにはまだ無邪気な楽しみだけがあったのだが。
 その名を示すのはつつしむけれど、同郷人のなかに、もの好きな人がいて、私がよく芝居に出入りして、女優と付き合うということを、官長のもとに報告した。そうでなくてさえ私がずいぶん学問のわき道にそれるのを知って恨んだ官長は、とうとうそのことを公使館に伝えて、私の役所の仕事をやめさせて、私の職務を解いた。公使がこの命令を伝えるときに私に言ったのは、「あなたがもしもすぐに日本に帰ったら、旅費を給付するでしょうが、もしもこのままここにいるなら、政府の援助をもとめることはできない」とのことであった。私は一週間の猶予をたのんで、「あれかこれか」と思いなやむうち、私の生涯でもっとも悲痛を感じさせた2通の手紙を手にした。この2通はほとんど同時に出したものだけれど、ひとつは母の自筆で、もうひとつは親族の□□が、母の死を、私がふたつとなく慕う母の死を知らせた手紙だった。私は母の手紙のなかの言葉をここにくり返すのにたえられず、涙がせまってきて筆の運びをさまたげるのだから。
 私とエリスの交際は、このときまで他人が見るよりも潔白だった(※肉体関係はなかった)。彼女は父がまずしいため、じゅうぶんな教育を受けず、15才のとき舞の先生の募集におうじて、このきまりが悪い技術を教えられ、「クルズス(※講習)」がおわったあと、ヴィクトリア座に出て、いまはそのなかで二番目の地位を占めている。しかし、詩人のハツクレンデルが「いまの世の奴隷」と言ったように、たよりないのは舞姫の身のうえだ。すくない給料でつながれ、昼の練習、夜の舞台ときびしく使われ、芝居の化粧部屋に入って化粧もほどこし、うつくしい衣装も身にまとうが、劇場の外では自分の衣食も不足がちなので、親きょうだいをやしなうものは、その苦しみはどれほどであろうか。そのようなので、「彼女たちの仲間で、みすぼらしいかぎりの行為(※売春行為)におちないものはすくない」と言うらしい。エリスがこれから逃れたのは、分別ある性質と、つよくていさましい父の守護によってである。彼女はおさないころから本を読むのがやはり好きだったが、手に入るのは下品な「コルポルタアジユ」という貸し本屋の小説ばかりだったが、私と知りあったころから、私が貸した本を読みならって、しだいに趣味も知り、言葉のなまりも正し、まもなく私におくる手紙にも誤字がすくなくなった。このようなので、私たちふたりのあいだには、まず師弟のまじわりが生まれたのであった。私の思いがけない免職のことを聞いたときに、彼女は顔色が青ざめた。私は彼女の身のことにかかわったことを包みかくしたけれど、彼女は私にむかって「母にはこのことを内緒になさいませ」と言った。これは母が、私が学費をうしなったことを知って、私をいやだと思うことをおそれたからだ。
 ああ、くわしくここに書きしるすのも必要でないけれど、私が彼女をかわいがる心がとつぜん強くなって、とうとう、はなれがたい仲となった(※豊太郎がエリスと性的な関係をむすんだ)のはこのときだった。私の一身の大事は目のまえに横たわって、ほんとうに危機がせまって生きるか死ぬかのときなのだけれど、この行いがあったことを見苦しく思い、また非難する人もいるだろうけれど、私がエリスを愛する気もちは、はじめて知りあったときから浅くはならずに、いま私の不運をあわれみ、また別離を悲しんで悲嘆にしずむ顔に、耳ぎわの髪の毛が解けてかかっている、そのうつくしい、かわいらしいすがたは、私が悲痛感慨の刺激によって普通でなくなっている脳髄をつらぬいて、心をうばわれてうっとりとするあいだに、ここに及んだことはどうしようもない。

相沢謙吉のおかげで仕事を得て、エリスと同居する

 公使に約束した日もちかづき、私の天のさだめはせまった。このまま日本に帰れば、学問が成就せずに汚名をせおった私自身の運がひらける機会があるまい。そうだからといってとどまるなら、学費を得られる手段がない。
 このとき私を助けたのは、いま私と同行するうちの一人である相沢謙吉である。彼は東京にいて、すでに天方伯の秘書官だったが、官報に私が免官されたことが出たのを見て、□□新聞紙の編集長に説明して、私を新聞社の通信員とし、ベルリンにとどまって政治学芸のことなどを報道させることとした。
 新聞社の報酬は言うに足りないほどだけれど、住まいもうつし、昼食に行くお店も変えたならば、かすかな暮らしは立つだろう。かれこれ考えるあいだに、心のまことをあらわして、助けのつなを私に投げかけたのはエリスだった。彼女はどのように母を説きうごかしたのだろう、私は彼ら親子の家に住むこととなり、エリスと私は「いつから」というわけではないが、あるかないかの収入をあわせて、つらいなかにも楽しい月日をおくった。
 朝の喫茶店が終わると(※朝食をすませると)、彼女は練習に行き、そうでない日には家にとどまって、私はキヨオニヒ街の間口がせまく奥行ばかりたいへん長い休息所に行って、あらゆる新聞を読み、鉛筆を取り出してあれこれと材料をあつめる。この切りひらいた引き窓から光を取った部屋で、することが定まっていない若者や、多くもない金を人に貸して自分は遊んで暮らす老人、証券取引所の仕事のひまを盗んで足をやすめる商人などとひじを並べ、つめたい石づくえのうえで、いそがしげに筆を走らせ、女中がもってくる一杯のコーヒーがさめるのも気にせず、あいている新聞で、細長い板きれにはさんでいる新聞を、何種類となく掛けてならべてある片方のかべに、何度となく行き来する日本人を、知らない人は何と見ただろうか。そして1時ちかくなるころに、練習に行った日には帰り道に立ち寄って、私とともに店を出るこの普通でなく軽い、手のひらのうえの舞もきっとできるだろう少女を、変だと思って見おくる人もいたはずだ。
 私の学問はおとろえた。屋根裏の明かりがかすかに燃えて、エリスが劇場から帰って、いすにもたれて縫い物などをするそばのつくえで、私は新聞の原稿を書いた。むかし、法令や条目の枯れ葉を紙のうえにかきよせたこととはちがって、いまは、活発な政界の運動、文学美術にかかわる新現象の批評など、あれこれと結びあわせて、力の及ぶかぎり、ビヨルネ(※ベルネ)よりはむしろハイネを学んで考えを組み立て、さまざまの書類をつくったなかにも、ひきつづいてヴィルヘルム1世とフレデリック3世の崩御があって、新帝(※ヴィルヘルム2世)の即位(※1888年)、ビスマルク侯の進退のゆくえなどのことについては、とくにくわしい報告をした。そのようなので、このころからは、思ったよりも忙しくして、多くもない蔵書をひもとき、以前していた仕事(※法律に関する仕事)に手をつけることもむずかしく、大学の籍はまだ除かれていないけれど、受講料を収めることがむずかしいので、ただひとつにしていた講義さえ聴きにいくことはめったになかった。
 私の学問はおとろえた。しかし、私はそれとはべつに一種の見識を成長させた。それはどのようなものかと言うと、だいたい民間学(※ジャーナリズム)の広まったことは、ヨーロッパ諸国のあいだでドイツにおよぶ国はないだろう。数百種類の新聞雑誌に散見される議論にはたいへん高尚なものも多くて、私は通信員となった日から、以前大学によくかよったとき、つちかって得た鑑識眼によって、読んでは読み、書き写しては書き写すうちに、いままで一筋の道だけを走った知識は、しぜんとまとめ合わされたようになって、同郷の留学生などの大部分は、夢にも知らない境地にいたった。彼らの仲間にはドイツ新聞の社説さえ、よくは読めないものがいるのに。

エリスの妊娠と、相沢からの手紙

 明治21年(※1888年)の冬は来てしまった。表のまちの道は砂もまき、すきもふるうが、クロステル街のあたりはでこぼこして困るところは見られないようだけれど、表面だけはいちめんに凍って、朝はやく戸を開けると飢えてこごえたすずめが落ちて死んでいるのも悲しい。部屋をあたため、かまどに火をたきつけても、かべの石をとおし、服のわたをつきぬく北ヨーロッパの寒さは、ずいぶん耐えがたくて。エリスは二三日まえの夜、舞台で卒倒したといって、人に助けられて帰ってきたが、それから「気分がわるい」と言って休み、ものを食べるたびに吐くのを、「つわりというものだろう」とはじめて気がついたのは母だった。ああ、そうでなくてさえ気がかりなのは私自身のゆくすえなのに、もしも本当だったらどうしよう。
 今朝は日曜日なので家にいたが、心は楽しくない。エリスは、寝床に横になるほどではないけれど、ちいさい鉄の暖炉のそばにいすをひきよせて口数もすくない。このとき戸口に人の声がして、ほどなく台所にいたエリスの母は、郵便の書状をもってきて私にわたした。見ると見おぼえのある相沢の字で、郵便切手はプロイセンのもので、消印にはベルリンとある。不審に思いながら開いて読むと、「急のことであらかじめ知らせるのに方法がなかったが、昨晩ここに到着された天方大臣につきそって私も来た。伯が『あなたに会いたい』とおっしゃるのではやく来い。あなたの名誉を回復するのもこのときであろう。心ばかり急がれて用事だけを言ってよこした」とある。読みおわってぼう然とした表情を見て、エリスが言う。「故郷からの手紙ですか。まさかわるい便りではあるまい。」彼女はいつもの新聞社の報酬に関する書状と思ったのだろう。「いえ、心配するな。あなたも名まえを知っている相沢が、大臣とともにここに来て私を呼ぶのだ。急ぐといえば今から。」
 かわいいひとりっ子を遠くへ出す母もこうは気をつかうまい。「大臣にお目にかかりもするのだろうか」と思ったからだろう、エリスは病気をおして起きあがり、ワイシャツもたいへん白いのを選び、ていねいにしまっておいた「ゲエロック」という二列ボタンの服を出して私に着せ、えり飾りまでも私のために自分の手で結んだ。
 「これで見苦しいとはだれも言うことができまい。私の鏡に向かってご覧なさい。どうしてこのようにおもしろくない表情をお見せなさるのですか。私もいっしょに行きたいのだが。」すこし様子をあらためて。「いえ、このように服をお改めになったのを見ると、何となく私の豊太郎さまとは見えない。」さらにすこし考えて。「たとえ富貴になられる日はあっても、私をお見捨てなさるまい。私の病気は母のおっしゃるようにならなくとも。」
 「何、富貴だと。」私は微笑した。「政治社会などに出るような望みは絶ってから何年経ったのだか。大臣には会いたくもない。長いあいだ別れていた友にだけは会いに行くのだが。」エリスの母が呼んだ一等「ドロシユケ(※辻馬車)」は、車輪の下にきしむ雪道を窓の下まで来た。私は手袋をはめ、すこしよごれた外套を背にかぶせて手を通さず帽子を取ってエリスにくちづけして建物をおりた。彼女は凍った窓を開け、みだれた髪の毛を北風に吹かせて私が乗った車を見おくった。

相沢と天方伯に面会する

 私が車をおりたのは「カイゼルホオフ(※ホテルの名まえ)」の入り口である。門番に秘書官相沢の部屋の番号を訊いて、長いあいだ踏みなれない大理石の階段をのぼり、中央の柱に「ブリユツシユ(※布の名まえ)」をおおったソファーをすえつけ、正面には鏡を立てた控えの間に入った。外套をここで脱ぎ、廊下をつたって部屋のまえまで行ったが、私はすこしためらった。おなじ大学にいたころに、私が品行の方正なのをたいへん褒めていた相沢が、今日はどのような顔をして出むかえるだろう。部屋に入ってたがいに向き合ってみると、すがたはむかしに比べると太ってたくましくなっているが、明るい気性はそのままで、私のあやまちもそれほどまで気にかけないと見える。別れてから後の様子をくわしく話すにも時間がなく、引っぱっていかれて大臣にお目にかかり、頼まれたのは、「ドイツ語で書いてある文書で、急を要する文書を、翻訳しろ」とのことだ。私が文書を受け取って大臣の部屋を出たとき、相沢はあとから来て私と昼食をともにしようと言った。
 食卓では彼が多く質問して、私が多く答えた。彼の人生はだいたい平らでなめらかだったが、不運で不幸せなのは私の身のうえだったからだ。
 私が心をひらいて物語った不幸な話を聞いて、彼はおどろくことが多かったが、なまじ私を責めようとはせず、かえってほかの平凡な先輩たちをののしった。しかし、物語りがおわったとき、彼が顔色をただして忠告することには、「この一連のことは、もともと生まれながらの弱い心から出たのだから、いまとなって言うのもしようがない。とはいえ、学識があり、才能があるものが、いつまで一人の少女とかかわりあって、目的のない生活をすることができようか。いまは天方伯もただドイツ語を利用しようという考えだけだ。私もまた、伯が当時の免官の理由を知っているために、むりにその先入観(※豊太郎にはドイツ語を翻訳させるだけという伯の考え。豊太郎は女性にだらしないという先入観)を動かそうとはしない。伯が心のなかで『事実をまげて他人をかばう人だ(※「相沢は遊び人の豊太郎をかばう変なやつだ」)』などとお思いになるならば、友人に利益がなく、私の損だからだ。人を推薦するにはまずその能力を示すのがいちばんだ。これを示して伯の信用を求めろ。そしてあの少女との関係は、たとえ彼女にまごころがあったとしても、たとえ男女の交際がふかくなったとしても、性格を知ったうえでの恋ではなく、慣習という一種の惰性によって生まれた交際だ。意を決して別れろ。」とのこと。これがその言葉のあらましだった。
 広い海に舵をうしなった船乗りが、遠くの山を見わたすようなのは、相沢が私に示した前途の方針だ。しかし、この山はやはりふかい霧のなかにあって、いつ行きつくのかも、いや、じっさいに行きついたとして私の心のなかに満足を与えるのかも、たしかではない。まずしいなかにも楽しいのは今の生活、捨てがたいのはエリスの愛。私の弱い心には思いさだめた理由がなかったが、とりあえず友人の言葉にしたがって、この交際を断とうと約束した。私は「守るところをうしなうまい」と思って、自分に敵対するものには抵抗するけれど、友人に対して「いやだ」とは答えられないのがふつうだ。
 別れて出ると、風が顔を打っている。二重のガラス窓を厳重に閉めて、おおきな暖炉に火をたいている「ホテル」の食堂を出たのだから、うすい外套をとおす午後4時の寒さはとくべつにこらえがたく、肌は粟立つとともに、私は心のなかに一種の寒さを感じた。
 翻訳は一晩でおわった。「カイゼルホオフ」へ通うことはこのときからしだいに多くなっていくうちに、はじめは伯の言葉も用事だけだったが、後にはちかごろ故郷であったことなどを挙げて私の意見をたずね、機会あるごとに道中で人々の失敗があったことなどを話してお笑いになった。

ロシア行きが決まる

 1ヶ月ほどすぎて、ある日、伯はとつぜん私にむかって、「私はあした、ロシアにむかって出発するつもりだ。ついて来られるか、」と訊いた。私は数日間、あの公務でひまのない相沢を見なかったので、この質問はふいに私をおどろかせた。「どうして命令にしたがわないことがありましょう。」私は自分の恥をあらわそう。この答えはいちはやく決断して言ったのではない。私は自分が信じて頼みにする心を生じた人に、とつぜんものを訊かれたときは、とっさのあいだ、その答えの範囲をよく考えもせず、すぐに承知することがある。そうして承知したうえで、それをするのがむずかしいことに気がついても、むりに当時の心がぼんやりしていたのを覆いかくし、我慢してこれを実行することが多い。
 この日は翻訳の代金に、旅費までも加えて頂戴したのを持って帰って、翻訳の代金をエリスにあずけた。これでロシアから帰り来るまでの費用をきっと支えられる。彼女は医者に診てもらったところ、ふだんと違っている(※懐妊している)体だという。貧血症だったので、何ヶ月か気づかずにいたのだろう。座長からは「休むことがあまりに長いので籍を除いた」と言ってよこした。まだ1ヶ月ほどなのに、このようにきびしいのは理由があるからだろう。旅立ちのことにはそれほど心をなやますとも見えない。いつわりない私の心をふかく信じているから。
 鉄道だから遠くもない旅なので、用意といってもとくにない。体に合わせて借りた黒い礼服、あたらしく買いもとめたゴタ版のロシア宮廷の貴族名鑑、二三種類の辞書などを、小カバンに入れただけだ。それでもやはり、こころぼそいことばかり多いこのごろなので、出ていくあとに残る人もなんとなく心が重いだろうし、また停車場で涙をこぼしなどしたならば、気がかりに思うだろうからと思って、翌朝早く、エリスを母といっしょに知り合いのところへ出しやった。私は旅支度をととのえて戸を閉め、かぎを入り口に住む靴屋の主人にあずけて出た。

ロシアに滞在

 ロシア行きについては、何を書きしるすことがあろう。私の通訳の仕事はすぐに私を連れ去って、青雲のうえにおとした(※高位高官にまじわった)。私が大臣の一行につきしたがって、ペテルブルグにいたあいだに私をとりかこんだのは、パリ絶頂のぜいたくを雪と氷のなかに移した王宮の装飾、とくべつにいくつともなく灯された黄色いろうそくの明かりが、いくつもの勲章と「エポレット(※肩章)」に映ってきらきらかがやく光、そして、彫刻の技術をつくした「カミン(※暖炉)」の火に寒さをわすれて使う宮女の扇のひらめきなどである。このあいだでフランス語をもっともなめらかに話すものは私だったため、客と主人のあいだに入って用事を話すものもまた多くは私だった。
 このあいだに私はエリスをわすれなかった。いや、彼女は毎日手紙を送ってきたのでわすれられなかった。(※以下、エリスの手紙の内容がつづく。)私が出立した日には、いつもとちがってひとりで明かりにむかうことのつらさに、知り合いのもとで夜になるまでなんとなく話をして、つかれるのを待って家に帰り、すぐに寝た。つぎの朝、目ざめたときは、やはりひとりあとに残ったことを「夢ではないか」と思った。起きあがったときの心ぼそさ、このような思いは、生活の手段に苦しんで今日食べるものがなかったときにも経験しなかった。これが彼女の第一の手紙のあらましである。
 そして、時間が経ってからの手紙はひじょうに思いがせまって書いたようだった。手紙を「いいえ」という文字で書き起こしている。(※以下、エリスの手紙の内容がつづく。)いいえ、あなたを思う心の深さのきわみを今こそ知った。あなたは『ふるさとに頼りになる身内がいない』とおっしゃったので、この地に生活していくよい手段があれば、おとどまりにならないことがあるだろうか、いや、そのようなことはない。そして、私の愛でつなぎとどめないでおくまい。それも叶わずに日本にお帰りになるならば、親とともに行くのは簡単だけれど、これほど多い旅費をどこから得ようか。「どのようなことをしてもこの地にとどまって、あなたが出世される日を待つのだ」といつもは思ったが、すこしのあいだの旅といってもご出立なさってからこの二十日ほど、別離の思いは日ごとに大きくなるばかり。別れるのはただ一瞬の苦しみだと思ったのは迷いであった。ふだんとちがっている(※懐妊している)私の体の具合がしだいにはっきりとなっている、それさえあるのに、たとえどのようなことがあっても、私をぜったいにお捨てになりませんように。母とはひどく言いあらそった。しかし、母は、むかしの私とちがって思いさだめている様子を見てあきらめた。私が日本へ行く日には、ステツチンあたりの農家に、遠い親戚がいるので、身を寄せようと言うらしい。書きおくりなさったように、大臣に重く用いられたら、私の旅費のお金はきっとどのようにでもなるでしょう。いまはひたすらあなたがベルリンにお帰りになる日を待つばかり。
 ああ、私はこの手紙を読んではじめて私の立場をはっきり知ることができた。きまりが悪いのは私のにぶい心だ。私は私ひとりの進退についても、また私に無関係の他人のことについても、決断する力があると自分で誇りに思っていたが、この決断する力はものごとが順調にすすんでいるときにだけあって、逆境のときにはない。私と他人との関係を照らしあわせようとするときは、頼りになるはずの心のなかの鏡はくもっているのだ。
 大臣はすでに私を信頼する気持ちが大きい。しかし、私はそのあと起きることがわからずに、ただ自分のつくしている通訳の仕事だけを見た。これに未来ののぞみをつなぐこと(※天方伯に信頼されること)には、神もどうして知っているのだろう、私はまったく思いいたらなかった。しかし、今ここに気がついて、私の心はやはり平然としていられたか、いや、そうではない(※エリスとの別れが現実味をおびてきたことがわかり、落ち着かなくなってきた)。先日、友人がすすめたときは、大臣の信用は手のとどかないもののようだったが、今はすこしこれを手に入れたかと思われるが、相沢が最近、言葉のはしばしに、「本国に帰ったあとも、ともにこのようであれば云々」と言ったのは、大臣がこのようにおっしゃったのを、友人であるものの、公事なので明らかには伝えなかったのか。いまになって思うと、私が軽率にも彼にむかって「エリスとの関係を断とう」と言ったのを、はやくも大臣に伝えたのだろうか。

ロシアの仕事が終わりエリスのもとへ帰る

 ああ、ドイツに来た当初、「自分自身で自分の性質をはっきりと知った」と思って、そして、「器械的人物とはなるまい」と誓ったが、これは足をしばって放たれた鳥がすこしのあいだ羽を動かして「自由を手に入れた」といい気になったのとおなじではないか。足の糸はほどくのに方法がない。さきにこれをあやつったのは、私の□□省の官長であり、今この糸は、ああかなしい、天方伯の手のなかにある。私が大臣の一行とともにベルリンに帰ったのは、ちょうど新年の元旦だった。停車場に別れをつげて、わが家にむかって馬車をはしらせた。ここでは今も大みそかの夜にねむらず、元旦にねむるのがならわしなので、家々はひっそりとしてものさびしい。寒さはつよく、道のうえの雪は、とがったかどのある氷のかけらとなって、晴れた日の光に反射して、きらきらとかがやいている。馬車はクロステル街にまがっていき、家の入口にとまった。このとき窓をひらく音がしたが、馬車からは見えない。御者に「カバン」を持たせてはしごをのぼろうとしたとき、はしごを駆けおりるエリスに会った。彼女がひと声さけんで私の首すじに抱きついたのを見て、御者はおどろいた顔つきで、何やらひげのなかで言ったが聞こえない。
 「よくぞお帰りになりました。お帰りにならなければ私の命はきっと絶えてしまったでしょう。」
 私の心はこのときまでも落ちつかず、故郷を思う気もちと栄達をもとめる心は、あるときには愛情を圧倒しようとしたが、ただこの瞬間、もの思いにふけりためらう気もちは去って、私は彼女を抱き、彼女の頭は私の肩によりかかって、彼女のよろこびの涙は、はらはらと肩のうえに落ちた。
 「何階かまで持っていきましょう。」と、どらのようにさけんだ御者は、いちはやくのぼってはしごの上に立っている。
 戸のそとで出迎えたエリスの母に、「御者をねぎらいなさい」と銀貨をわたして、私は手を取って引いていくエリスに連れられて、いそいで部屋に入った。一目見て私はおどろいた、つくえのうえには白いもめん、白いレースなどを、うずたかく積みあげているので。
 エリスはちょっと笑いながら、これを指さして、「何とご覧になりますか、この心の用意を。」と言いながら、ひと切れのもめんを取りあげるのを見ると、おむつであった。「私の心のたのしさをご推量くださいませ。生まれる子どもはあなたに似て、黒いひとみを持っているでしょう。このひとみ。ああ、夢にばかり見たのは、あなたの黒いひとみです。生まれた日にはあなたの正しい心で、けっして別の名まえを名のらせくださいますまい(※私生児にしないでください)。」見あげた目には涙が満ちている。

帰国が決定し気絶する豊太郎

 二三日のあいだは大臣にも、「旅の疲れがおありになるだろう」と思って、そちらにまったく伺わないで、家にばかりこもっていたが、ある日の夕暮れ、使いが来て、招待された。行ってみると、もてなしは特に立派で、ロシア行きの苦労を気づかって、ねぎらったあと、「私とともに日本に帰る気はないか。君の学問は私の思い知るところではないが、語学だけで世のなかの役に立つにはきっとじゅうぶんだろう。『滞在があまりに長くなったので、さまざまの身内もあるだろう』と相沢に訊いたが、『そのようなことはございません』と聞いて安心した」とおっしゃる。その様子では断われもしない。「ああ」と思ったが、それでもやはり相沢の言葉を「うそだ」とも言いがたくて、「もしもこの方法に頼らないなら、本国も失い、名誉を挽回する道も絶ち、自身はこの広々としたヨーロッパの大都会の人の海に葬られるのだろうか」と思う気もちが、心を刺して起こった。ああ、すこしも特操(※いつも変わらないこころざし)のない心だ、「承知いたしました」と答えたのは。
 鉄のひたいはあっても(※いくら恥知らずでも)、帰ってエリスに何と言おうか。「ホテル」を出たときの私の心の混乱は、例えようがなかった。私は道の東西もわからず、もの思いにしずんで行くうちに、行きあたった馬車の御者に何度かしかられ、おどろいて飛びのいた。しばらくしてふとあたりを見ると、公園のそばに出ていた。たおれるように道のそばのベンチによりかかって、焼けるように熱く、ハンマーで殴られたようにひびく頭をベンチの背にもたせかけて、死んだような状態で何時間をすごしただろうか。「はげしい寒さが骨まで届く」と思われて目ざめたときは、夜になって雪はたくさん降り、帽子のひさしと、外套の肩には3センチメートルくらいも積もっていた。
 もう11時をすぎただろうか、モハビツト、カルル街を通る鉄道馬車のレールも雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のそばのガス灯は、さびしい光をはなっている。立ちあがろうとするが、足が凍えているので、両手でさすって、やっと歩けるくらいにはなった。
 足の運びがはかどらないので、クロステル街まで来たときは、夜中をすぎていただろうか。ここまで来た道をどのように歩いたかわからない。1月上旬の夜なので、「ウンテル・デン・リンデン」の酒屋、茶屋はやはり人の出入りが盛んでにぎやかだったようだが、まったく思い出せない。私の脳内には、ただただ「私は許されない罪人なのだ」と思う気もちだけが満ち満ちていた。
 4階の屋根裏には、エリスはまだ寝ていないと思われる。(※雪のなかで見る部屋の明かりは、)明るくかがやくひとつの星の光が、暗い空にすかすと、はっきりと見えるが、降りしきる鷺(さぎ)のような雪で見えなくなったり、すぐにまた見えるようになったりして、風にもてあそばれるのに似ている。戸口に入ってから疲れを感じて、からだの節々の痛みがこらえがたいので、這うようにはしごをのぼった。台所をすぎて、部屋の戸をひらいて入ったところ、つくえによりかかっておむつを縫っていたエリスはふりかえって、「あ」と叫んだ。「どうなさったのですか。あなたのすがたは。」
 おどろくのも無理はない。私の顔色は死人のように青く、帽子をいつのまにかなくして、髪の毛はひどくみだれて、何度か道でつまづいて倒れたので、服は泥まじりの雪でよごれて、ところどころやぶけているから。
 私は答えようとするが声が出なくて、ひざが、しきりにふるえて、立つのに耐えられないので、いすをつかもうとしたところまでは記憶しているが、そのまま床に倒れた。

狂乱するエリス

 意識を取りもどすくらいになったのは数週間後だった。熱がはげしくて、うわごとばかり言ったのを、エリスが熱心に看病するうちに、ある日、相沢が訪ねてきて、私が彼にかくしている一部始終をくわしく知って、大臣には病気のことだけ説明して、都合のよいように取りつくろっておいたようだ。私は、そのときはじめて、病床のそばにいるエリスを見て、その変わったすがたにおどろいた。彼女はこの数週間のうちにひじょうにやせて、血走った目はくぼんで、灰色のほおはこけている。相沢の援助で日々の暮らしには困らなかったが、この恩人は彼女を精神的に殺したのだ。
 後になって聞いたところによると、彼女は相沢に会ったとき、私が相沢にあたえた約束と、私があの夜大臣の提案を承知したこととを聞き知って、とつぜんいすからはねあがり、顔色はまるで土のようになって、「私の豊太郎さま、こうまで私をだましなさったか」と叫び、その場にたおれた。相沢は母を呼んで、ともにたすけ起こして、寝床に横たえたが、しばらくして目ざめたときは、目はまっすぐを見たままでそばの人にも気がつかず、私の名まえを呼んでひじょうに騒いで(※あるいは「悪く言って」?)、髪の毛をむしり、ふとんを噛むなどし、
 また、とつぜん気がついた様子で何かをさがしもとめた。母が取って与えたものを、すべて投げすてたが、つくえのうえにあったおむつを与えたとき、さぐってみて顔におしあてて、涙をながして泣いた。
 このときからは騒ぐことはないけれど、精神のはたらきは、ほとんどすべてなくなって、その頭がはっきりしない様子は赤ん坊のようだ。医者に診せたところ、「たいへんな心労で急に起こった『パラノイア(※偏執病・妄想症)』という病気なので、治る見込みがない」と言う。ダルドルフの癲狂院(※精神病院)に入れようとしたが、泣きさけんで、言うことを聞かず、後には、あのおむつのひとつを身につけて、何度か出しては見て、見てはすすり泣く。私の病床をはなれないけれど、これさえも分別があってしていることではないと思われる。ただ、ときどき思い出したように「薬を、薬を」と言うばかり。
 私の病気はすっかり治った。何度もエリスの生けるしかばねを抱いて、たくさんの涙をながした。大臣につきしたがって帰国の旅路についたときは、相沢と相談してエリスの母に、かろうじて生活をおくれるくらいのお金を与えて、かわいそうな狂女の胎内にのこした子どもが生まれたときのことも頼んでおいた。
 ああ、相沢謙吉のような良い友人は、世のなかに二人と得がたいだろう。しかし、私の頭のなかにほんのすこし、彼をうらむ気もちが今日までも残っているのだった。

凡例

  • 適当なところで区切りを入れ、見出しをつけました。

  • 注をつけたところは(※)で表しております。

  • 文中の「某(なにがし)」は「□□」と表記しました(例:某新聞紙→□□新聞紙)。


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