『歌集 瑠璃色の夏の終わりを見届けながら』中村成吾さん
私家版の歌集の告知をした時に、塔やnoteで交流させていただいている中村成吾さんから「交換してお互いに評を書くのも面白そうですね」という素敵な提案をいただきました。
今回は、その中村さんの『瑠璃色の夏の終わりを見届けながら』の中の好きな歌を紹介したいと思います。
(中村さんの『拾わないコイン』の感想はこちらです!)
読み始めて受けた第一印象は、隙がなく目の詰まっていて一首ごとの完成度が高い、ということ。章立てがテーマごとにまとめられていてすっと歌の中に入っていける没入感があります。
それでは。
年賀状を書くか書かぬか迷ひつつ会わない人の今年を思ふ
(P12「COVID-19」より)
連作タイトルにもあるようにコロナ期間中のことを詠んだ一連。
下の句がとても好きです。
普段からやり取りの少ない人に年賀状を送ることを迷うことはあると思います。
でも年賀状という行為を通してその人のことを思い出すきっかけにはなるんですよね。
会えないではなく、会わないという認識は、敢えて会わなくてもいいなという選別も含まれているようでコロナ禍という状況がそれを際立たせているように思いました。
出歩かず季節を知らぬ部屋の中にかつぱえびせんかをる梅味
(P14「COVID-19」より)
私も在宅勤務になることが多く、外を出歩かない日が多かったです。そんな日は外の様子がわからない日もあります。
暑いか、寒いか、晴れているか曇りなのかそういうことを感じにくい日々なのでしょう。
それを「季節を知らぬ」という大きく括ったところがいいなと思いました。
部屋の中の匂いも、梅味のかっぱえびせんであることも、とても具体的でかつニッチな選択なことが主体の輪郭が浮き出てくるようです。
梅味を選ぶ主体は、やはり季節感を得たいと思っているのでしょう。
カーテンをさつと開けたる連休の二日目予定はないのだけれど
(P15「COVID-19」より)
ないのだけれどという結句の、ついこぼれてしまう主体の意識が好きです。
カーテンを開けるという外に向かった行動の大きく明るめなイメージからの対比が面白いと思いました。
一か月逢へずにゐてもしつかりとつながつてゐるクレマチス咲く
(P16「COVID-19」より)
恋人との関係のことと読みました。
コロナ期間中会えない日々が続いたのでしょう。それでも恋人とはつながっていることが確認できた。
何を持って繋がりを感じることができたことは書かれていないですが、逆に意識下で「しつかりと」つながっていることを感じます。
クレマチスは、一年を通して楽しむことができる花ですが、やはり咲くということから寒さが緩まり暖かくなってくる春を思い浮かべます。
二人の間も春に咲くクレマチスのような明るいかわいらしさを感じます。
転職のために履歴書を書く夜は雨音ばかり耳に残つて
(P20「転職活動」より)
履歴書を書くとき、これまでの自分の学歴や職歴を思い返す。自分を振り返るときは自分を心の中に置く。
自分以外の音が雨音だけになり、何かかき消してしまいたい過去なのでしょうか。
雨音には少し悲しい響きを感じます。
残つてという言い差しは、その響きから余韻が広がるようです。
面接の試験の前に手を洗ふ秋から冬へと移ろふ水に
(P20「転職活動」より)
これから面接というときに手を洗ってさあ行こうと気合いを入れ直してるのでしょう。
秋から冬へ移ろふというのは、水がこれまでよりも冷たく感じている。
緊張するであろう面接の前に、意識は明晰なのかもしれません。
そして秋や冬と捉えられる心の余裕さえも感じます。
静物画のやうな日常休職の私に届くメールはなくて
(P28「転調(modulation)」より)
休職をして休みが続いている日々は、何も変わり映えがしないのだと主体は思っている。
静物画に例えた日常が良く言い表せていると思います。止まっているように感じるだけではなく、すべてが自分とは距離のある「物」のように思えているのかもしれません。
ぼんやりと過ごす休日逆さまの椅子の挿絵が余白にひとつ
(P29「転調(modulation)」より)
逆さまの椅子という奇妙な挿絵。逆さというのは、反対であることから否定的な意味にもとれます。
本来は座るものが、逆さになっていて座ることができない。安定ではなく不安定ということでしょうか。
挿絵、余白ということからは、何かしらの本を目にしているのでしょう。
休日にその挿絵に目が入ってしまう主体の、不安定に思っている日常の不安を感じます。
象徴的なイメージが目の前に突きつけられて印象深いです。
君を駅に見送る七分ゆつくりと歩いてゆつくり話して四月
(P46「春」より)
これはとても好きな歌でした。
恋人を駅まで送る時間が7分間。駅までは比較的近い場所なのでしょう。二人ならあっという間についてしまう。
その道のりをゆっくり歩く二人。時間が名残惜しいように。
それが二人にとっての春だし、最後四月で締められているのがなんとも温かな印象を持ちます。
二句切れの「七分」の部分と、結句の「四月」が共に時間であることに、壮大な広がりを感じました。
ほんの短い「分」という単位が逆に、四月という春らしい日々をリアルにさせています。
手袋をはづして駅に見送りぬ心の余熱を持て余しつつ
(P67「冬」より)
この歌もまた駅に見送りに来た景です。
今後は季節が変わって手袋をする冬の季節。
駅に見送りに来たことを表現するときに、手袋の有無を描くところがいいと思いました。
生身の手のひらを差し出すことの、生々しさ。気持ちが手のひらから放射されるような熱い思いを主体は恋人に対して持っている。
冬という情景からのギャップで、より温かさを感じられるようです。
買つてきたあなたの箸を洗ひつつ週末までの時間を思ふ
(P68「冬」より)
時間の過ごしかた、捉え方が素敵な一首。
週末は恋人が家に来てくれるのでしょう。新しい箸というアイテムが主体と恋人の距離感、その待ち遠しさをちょうどよく表しているように思います。
全体を通して、クラシック音楽や花の名前のモチーフがよく使われていて、イメージを想起させられました。
また特徴的なものとしては「むらさき」に対しての視線が意識的に使われていると思っています。
これは曖昧な何かを見つめるために必要なものなのだろうと受け取りました。
過去(すぎゆき)の一連は、
受け止めきれない部分もあり歌の紹介ができていませんが、小説を読んでその中に入り込んでしまったかのような没入感を感じました。
「え、まじで」とかつい口に出てしまいました。
この一連を軸として捉えたときに、とても大切なものを短歌という形、歌集という形にまとめられたことに敬意を抱きます。
とても大切なもの。やわらかくてあたたかくて、感触のあるもの。短歌の一つの形なのだと思いました。
私家版を交換することができ、とても素敵な体験ができました。
交換する、読む、感想を書く、感想を読む。それぞれの良さだけではなくそれらが有機的につながっている「私家版交換」は交換日記とも似ているような不思議な新しい体験です。
中村さん。ありがとうございました。
他にも好きな歌を引いておきます。(めっちゃあった)
『落とされない小論文』といふ本を五ページ読んで昼寝する午後 P17
面接の試験の前に手を洗ふ秋から冬へと移ろふ水に P20
静物画のやうな日常休職の私に届くメールはなくて P28
ぼんやりと過ごす休日逆さまの椅子の挿絵が余白にひとつ P29
使つてはゐないのだけど一階に古いコインランドリー五台 P30
お互ひを名前で呼んだ記念日にスイートピーを買つて帰らう P36
歳時記をひらけば二月は春とあり季節はいつも二歩先をゆく P43
踏切の向かふに菜の花咲いてをりたしかにここにも春が来てゐる P43
書きかけの詠草を見た恋人の「あっこれいいね」クレマチス咲く P51
ふんはりと君は階段おりてきて並んで歩く八月の海 P52
触れもせず終はつてしまふのかもしれぬ海の向かふの海を見てゐる P53
ひらがなはやさしき文字よ君もまたやさしき人よピザ取り分ける P56
この橋を渡り終へたら恋人でなくなるんだね揺れるコスモス P60
どこからが秋どこからが君の指名前を呼べど振り向かぬ人 P61
いただいた紅茶を淹れる冬の朝君のアルトを思ひ出しつつ P69
眠るとは意識に錘をつけることうすむらさきの絵の具を溶かす P70
わたくしがあなたになつてゆくやうな遠い錯覚むらさきの夜 P74
ゆつくりと君はうなづく瑠璃色の夏の終りを見届けながら P77
奥付けにシリアル番号も振られていて、とても嬉しいです。