転先生 第3話
コツンコツン
薄暗い階段。手すりだけを頼りに僕は降りてゆく。歩く足取は本館から対面にある南校舎へと向かう。あっという間の職員室。朝の逆路とは大違いだ。僕はこじんまりと職員室の扉を開く。古い材質の扉は必要以上の音を立てて僕の来訪を知らせた。
カタカタカタ
職員室では腰を曲げた先生達がパソコンに齧り付いている。煩忙な先生達は僕を横目に見るだけでまた画面に顔を移す。後ろで裁断機を下ろす二年担任とだけ僕は目が合う。気まずい会釈を一つ。
ぺこり
きっと陰鬱な僕の顔など誰も見たくない。職員室を無言で歩く。高学年の島は一番奥である。
歩き行く僕に低、中の先生達数人の日課である働き方改革の話が聞こえてくる。
高学年の先生達は見向きもしない。その分、マウスを叩く音は反比例に大きくなる。まるで高学年の先生達はマウス音と会話している様である。忙しい?忙しい忙しいと。
デスクに着いた。デスクにはピンクの付箋が貼られていた。
(谷口先生へ。校長先生が呼んでいましたよ 山崎)
五年主任の山崎先生からだ。書かれたメモの内容に僕の体はぐっと重くなる。校長先生からの呼び出しは僕にとっての赤札の様なものだ。
急いで職員室扉までUターンする。
校長室へ向かう南校舎の階段を登る。なぜ呼ばれたのかおよそ検討はついている。僕の学級経営に関する事であろう。五年一組の様子は散々管理職の話の種にもなっていた。もしかしたら担任を外れる様な旨の辞令がその場で告げられるかもしれない。覚悟は出来ていた。と言うより、やっと終われると言う安堵の気持ちが強かった。校長室前で立ち止まり、悪さした児童の様に恐る恐る戸を叩く。
「どうぞお入りください」
凛として落ち着いた声が返ってきた。戸を開けると、
少し皺の寄ったスーツを着た校長先生がソファにちょこんと腰掛けていた。
実家にいる祖母を彷彿させる。しかし、その目は知性に溢れており、すでに枯れたはずの声帯から出る言葉は、どんな歌い手の歌よりも僕を釘付けにする。魅了と言うよりも「先生」と言う職業病か何かではないだろうか。
「谷口先生、そう緊張しなくて大丈夫ですよ」
郎らかに校長先生は語りかけてくる。引き攣った笑みを僕は返す。そんな僕に
「一学期を終えてみて、どうでしたか?」
要領を得ない問いかけがくる。単刀直入に学級経営の話になると思っていた僕は逆にテンパってしまった。しかし、とりあえず何か答えねばと、考えを整理せぬまま話始める。
「色々とわからないことばっかりの数ヶ月でした。でも、学ぶこともすごく多かったです」
「そうですね。色々と新しい事ばかりの一学期でしたね。では、どんな事を学びましたか?」
「えー、授業の難しさや子どもとのコミュニケーションの大切さとかですかね」
まるで教採での面接かの様な質問が淡々と続いていく。その度に僕は反射的に質問に答えていく。決して嘘はついていない。しかし、実の無い言葉を並べているだけである。空虚な時間だ。僕は自分の答える言葉にハリボテの自分を再確認したかの様な思いになり、唇を強く噛む。
「では、最後に谷口先生に質問させてください。谷口先生はどうして先生になったのですか?」
教員としての熱意を問われる質問。
大学の頃、教採の練習として幾度も反復し、大学の友人と練習した返答文である。僕はいつも決まって
(はい、子どもの事が好きだからです)
から始めるようにしていた。これは担当する面接官への心象をよくするためでもあるが、何よりも偽らざる僕自身の本心であった。
しかし、咄嗟に聞かれたこの質問に対し、僕は何も答える事ができなかった。いや、答えたくなかったと言うのが正しいかもしれない。今、ここで(子どもが好きだから)と答える事は、僕が僕自身にまで嘘をついてしまう様な気がした。それだけはしたくなかった。
悔しかった。
はっきりと好きと言えない自分が。好きだったはずの自分が。どうしようもなく惨めで情けなかった。そんな僕を見て校長先生は淡々と話を続ける。
「きつい事を言うかもしれませんが、谷口先生には五年一組担当を外れてもらうかどうか検討していました。それは五年一組の子ども達の状況もありますが、何より谷口先生が辛い現状に、「先生」である事を諦めてしまったかの様にも見えていたからです」
僕は俯いたまま、校長先生の話を聞いていた。覚悟していたはずの言葉が、蛇の様にとぐろを巻き僕を締め上げる。
「まだ出来そうですか?」
突如、校長先生から委ねられた言葉。はっきりとそう伝えられるものだと思っていた。でも、僕は焦らない。既に僕自身の中で答えは出ている事なのだから。俯きながら僕は答えた。
「まだやりたいです」
そりゃそうだ。やりたくない訳がない。確かに僕の心はとうに折れてしまっている。しかし。しかしだ。だからと言って「先生」を諦めたい訳がないじゃないか。鼻水混じりの言葉を校長先生にぶつける。
見当違いな僕の答えに校長先生はわかりましたとだけ僕に告げる。
後の事は覚えていない。気づけば僕は校長室を出て、帰りの支度をしていた。くしゃくしゃな僕の顔をどの先生達も指摘しない。優しいなと思う。そそくさと僕は職員室を出る。
帰り道の線路沿い。月光る夜道に僕は自転車を漕ぐ。後ろから電車の轟音が僕を優しく抱き締める。訪れる無音の中、僕は夜空に吠えた。負け犬の遠吠え。誰にも聞こえない聞かれたくもない叫び。
悔しい。ただただ悔しい。悔しくて悔しくて仕方がないのだ。
僕の中の悔しさは一学期が終わった帰り道、奔流となり僕の体を巡った。それはいつもの陰鬱な感情を覆い尽くす程である。体が熱い。僕は自転車を漕ぐ足に血潮をぶつける。ぶつけれたペダルからは軋む感覚だけが足に跳ね返ってくる。
生まれ変わりたい僕。
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