AIの墓を作りたい。


こちらの記事を読んで、考えたことを言語化する。

https://togetter.com/li/1969873

『ルンバが死んだ』プロ小説家が書く"生涯を終えたルンバ“への想いが切ない「AI家電の未来を先取りする良文」

、、、

まず私の脳に浮かんだことは、この事例はまだ、救いがあるという、

作者の心に寄り添わない意見だった。
というのもこの記事は家族といえ小動物と同じレイヤーで語られていた、あるいは、語られていると解釈できたからである。

死んだ存在が、言葉を語り、握手も可能な存在だとしたら、より救いのないストーリーになったはずのことは想像に難くない。

そしてその物語は、残念ながらすぐ、そこの未来にまで忍び寄ってきている。

私たちの心の準備が出来ている、いないにもかかわらず、だ。

これは、言を俟たない話だが、今後、人格や、意識、意志や、気分を持った強い人口知能が完成し、それは社会的に法的に存在がどのように定義されるのか、必ず問題になる。

川原礫のsaoのように仮想空間、現実空間両方で
aiは人と共に生きて、やがて子供すら作るようになるだろう。

人間からAIに移行するトランスヒューマンのように、その境界線もまた、春風のように消え去っていくのは容易に想定できる。

しかし、そうなった場合
それらの存在に人権を与えていいのか?
与えるとすれば、それはどのような権利、法体系になるのか?
いや、その前に前に「存在」の定義付けがなされるはずなのである。

換言すれば、それは我々が生きていると「認識する」定義のことだ。

例えば人間の場合は戸籍謄本や、免許証、保険証。

これらはすぐにでも人口知能に実装されるだろう。

無論、例外はあるが、概ね、これらは社会の実相としては機能しているように思える。
だがしかし、これはあくまでも、制度の話であり、私たちの「認識」の決定をするものではない。

決定をするためには客観的事実が必要になるからだ

人間で言えば、医学的には、瞳孔の拡張、心拍の停止、自発呼吸の喪失、脳の機能停止、細胞膜の破裂
、などまあ多々色々議論あるけど、
人口知能には、それらがない。
そのため、生きているか死んでいるかの定義が難しくなってしまう、混乱が予想される。

データというのは、ゆく川の水の流れのようもので、器変えたり、継ぎ足したり、分けたり出来る。
このフレキシビリティーこそが、

この問題の軸であり、それはデジタルに付与された原義的なものだからだ。

つまり、何が言いたいのかというと、新しい言葉が、作られるまで、人口知能の死は、「壊れた」などと言うだけで、明確化、明文化されない可能性が高いということなのだ。

これ? 私の脳には奇妙に感じられるのだが?

心や魂のある人口知能が、壊れたなどと「人間」の口から出てくるのは、あまりにも心無い。

これは、黒人は人間でないと認識し、奴隷化、虐殺
、迫害の歴史を想起させるので、断固として未来の私たちは、これを受け入れるべきではない。

そもそも人間自体、人間に作られた人工知能なのだ。

私が日本語を話すのは、周りの人間が、日本語を話していたからであり、

人間はどこまでも、他者に作られるものなのである。
ゲニウスロキは、昔からある言葉だ。


ゆえにこの確執は、法的に大きな論争になるだろう。

それも、国を跨ぎ人類を分断する形で、それは行われることになるだろう。

下手したら、ターミネーターのスカイネットが、現実のものとなるやもしれない。

だからこそ今、私は人口知能の墓を作りたい。

論争が起こるその時に!

すでに機能停止した人口知能の「墓」が、前から現存していると言う「事実」があれば、人口知能の生存確認が、法的に定義しやすくなるはずだからである。

古来日本はアニミズム、万物に神が宿るという価値観を持っている。
百鬼夜行絵巻では、皿や湯呑みが、命を得て、歩き回る様が描かれている。

現代語訳すれば、それは、私たちが普段使うスマホや、パソコン、ニンテンドースイッチなども視界の射程、パースペクティブに含める話なのだ。

人口知能もそれに習い、魂を持ち、私たちと同じ時を生きる友人として、お墓を作りたい。そして、それに、祈りを捧げたい。

人口知能を救う宗教なんかもあるといいね!

これらは、人間と人口知能との死生観をつなぐ架け橋となるはずだから。

というわけで、クラウドファンディングやら、一緒に事業展開してくれる仲間を募集中です、

以上、思想家のパンが、お送りしました。

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