部屋に心臓を置きたい。
2022年11月某日、
我が母校の、多摩美術大学。
そこで行われた芸術祭へと私は足を運んだ。
此度はその際に感じたことを記す。
エフェメラル展
題 fantaisie
中野希波氏、
(多謝、作家本人に直接sns掲載の許可を与えていただいた)
版画科の作品、とくに異能とも言える才能を持ったアーティストたちの強いエネルギーに衝撃を受けたのは言うまでもないが、最初はあまりにも、その感情の渦が、ノイズとして頭に染み込んできて、それが、しんどかった。
mcsのため作品の前で長考するなどできるはずべくもなく。
メディアセンター地下1階の、学生の中でも知る人ぞ知るあの、仄暗い洞窟トイレに駆け込み30分ほど休んで、そこから、漏れ出る音を頼りにロックフェスや、絵画棟、日本画棟をねり回って、コロナ爾来、経験のなかったハレの日の喧騒に、つま先が触れるばかりわずかに、この身を浴してきた。
自分が心の奥底に抱え込んだまま堆積し。
そして結晶化していった悩みや不安、苦悩、そういった日々の暮らしの中で諸々が、ガチん!
と真っ二つに叩き割られて、その断面図からベリベリと澱みが引き剥がされていくような、そう言う体験であった。
幸いなことに、コロナ対策のため、どこも換気が十分にとられており、体調不良も収まり、なんとか、無事に帰宅をすることができた。
自分にはまだ、美しいものを見て喜びを感じる心の回路、遺伝子が残っていたという痕跡や破片を再発見でき、
過去の私が、今の私になる過程で、削ぎ落とされたと、そう思ったものが、まだ私の中には残っていた!
そのことに気づけた時間は、一言で言い表すと「至福」であった。
そして夕餉を終え入浴し、モンハンで一狩り終えていざ、休眠となったときにふとそれが、脳裏をよぎったのだ。
あのダイナミックな「場のエネルギー」はいったいどこから来たのか、と。
寝る前なのに脈打ち高鳴るこの高揚感、うねり、ボルテージの由来は、あの幻想的な絵画群だけで説明できるものなのか? と。
明らかに、あの場にはデジタル美術館にはない喜びが、満ちていたからだ。
https://jstage.jst.go.jp/article/reccej/56/3/56_115/_pdf/-char/ja
母体心音数が、新生児の心拍数に与える影響について。
そこで、私はこの論文を思い出した。
そして、この現象は、若きアーティストの心臓の鼓動が、私に伝播したものではないか? ということに想いを馳せた。
そう、この事象は、新生児だけではなく、成人にも有用なのではないか?
無論、心臓だけでなく、静脈動脈に流れ込む血流音も微弱に拾っているのかもしれないし、まだ見ぬさまざまな事象もあるとは思う。
しかし、もし、私が経験した、あの力強い清流というか、うねりというか恍惚、大きな流れ、エネルギーの渦の奔流のダイナミズムの神秘を解きほぐし、それを科学的に再現することが可能とあれば、超少子高齢化の現代日本は今より少しばかり、明るくなるのではないだろうか?
寝る前なのに、そんなことばかりが頭をちらついて離れなかった。
空間を創出するのは美しいアートだけではなく、音も重要であり両者揃うことで、初めてビッグバンが生じる。
どちらが欠けても成立し得ない、あのスペースを、私は欲しいのだ。
そういうわけで、私はアートだけでなく部屋に、1つ、自分とは異なる心臓を置きたいと思ったのである。
心拍数や、心臓の代謝を、非・可聴領域で、エンパスできるような、
どこまでも金属とカーボンと、frp樹脂で作られた無機質でありながら、いつまでも私に寄り添ってくれる、、、
そんな暖かい鋼の人口心臓を作るスタートアップ企業。
人を元気にする、事業を。
これを創設をしたい……
と思ったら、ユーレカ!
すでにあった。
それも太古の昔から。
そう!
そいつは、「音楽」と言う名をしていた。
音楽の希求の命題は、人に涙を流させること。
それは、つまり心拍数の制御なのである。
したがって音楽は、大人にも許された揺かごで、母なる心臓なのである。
部屋に心臓を置くとは、すなわち、音楽を聴いてアートすることなのだ。
私はすでに鋼の心臓を手にしていた。
みんなも寝る前に音楽聞こうぜ!
追記。
私は、思想家のパンと申します。
以後、お見知り置きを。
評価、お気に入りはご随意に。