ショートショート コンプレックス
誰しも何か一つ、コンプレックスを持っているだろう。小さい頃からずっと持っているコンプレックス、大人になってから気づいたコンプレックス。悩みの大きさは人それぞれだ。人にはそこまで気にならないことも、自分には特別気になってしまう、それがコンプレックス。
私にとってのそれは、顔だ。
中学生の頃だったか。ポツリと頬に一つ、赤くて大きい、いかにもなニキビが出来た。
「吹き出物ができる年頃になったのねぇ」
母は嬉しそうに言った。私はこれが一体なんなのか、よく分かっていなかった。赤くて、鈍い痛みがある、吹き出物というもの。特別気になることも無かった。ある言葉を言われるまでは。
「潰したら跡が残るからね。やめなさいね」
潰す?これを?
この言葉は私の好奇心を一気に駆り立てた。頬にできた一つの大きな赤い物体。この膨らみの中に何が入っているんだろう、潰すってどうやって?そう思いながら鏡と睨めっこし、その物体を爪でつついた瞬間だった。
確かにそれは弾けた。驚いて目を見張った。赤い物体は膨らみを失って、代わりに赤い血が頬を伝った。
すごい。これが「潰す」か。……気持ちいい。
鏡の前に立つ、顔を触る。あの日からこれが私の日課になった。ひどく落ち込んだ日も、ニキビを潰すことで少しだけ、嫌な気持ちも一緒に潰れて消えてゆく気がしていた。
一時の快楽と引き換えに手に入れたのは、無数のニキビと、酷くなり過ぎた顔だった。潰したり触ったりする度に私の肌はどんどん汚くなっていった。肌質も変化して、前まで凹凸一つなかった綺麗な卵肌は、数年間の酷い習慣によって、既に取り返しのつかないところまで来ていた。
それでも私は、思春期の苛立ちとぶつかった壁の分だけ肌を触り続けた。この頃から、もはや快楽を味わう為でなく、一種の自虐として、肌を触ることが何かの憂さ晴らしのために欠かせない行為と化していた。
高校に上がったときには、自分の習慣がどれだけ愚かだったかを知ることになった。というのも、周りの子達で私ほど顔が汚い人間が見当たらなかったからだ。
なんで、どうして。わたしだけ。
顔のことを相談できる相手もいなかった。親には恥ずかしくて言えなかったし、友達にも自分の恥ずかしい容姿のことを、わざわざ言う気にはなれなかった。皮膚科に行くのも、先生にじっくり自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、行く勇気が出なかった。この頃から人前に出るのも恥ずかしくなって、人と話す時に俯きがちになった。気づいたらいつの間にか、写真フォルダに自分の姿を見ることは少なくなって、その代わりに鏡の前で泣くことが増えた。
高校で初めて、彼氏が出来た。とても優しくて、一緒に居て落ち着く人だ。
私たちはよく一緒に帰った。私たちのくだらない話を満たすには、家に帰るまでの通学路だけでは短過ぎて、いつも遠回りをして、それでも足りない時には公園のベンチに座って夜まで話した。
「キス…したい」
時が、止まったと思った。彼が言った言葉が、私の心臓を強く鷲掴んで、その強さに血液が一気に沸騰したかと思うほど熱くなった。
「でも………あっ…」
強く、でも優しく抱き締められた。季節は秋と冬の境目で、彼の体のじんわりとした暖かさが、少し冷えた私の体を暖めてゆく。
「ちょっと、待って。キス…待って欲しい…私、顔を近くで見られるのは、ちょっと…嫌なんだ」
「なんで」
「私…肌、汚いから…見られるの恥ずかしくて…」
「そんなこと、俺気にしないよ。それに、由樹の顔が汚いなんて思ったことない」
「でも……やっぱり…ごめん………」
「そんなに嫌なの」
「うん、ごめん。でもね、沢村くんが嫌なわけじゃないの。本当に…ごめんなさい」
家に帰って、鏡を見た。酷い顔だ。鼻の黒ずみもそう、おでこのザラつきもそう。頬と顎にはいくつか出来物がある。なにより、全体的に赤みを帯びた肌荒れが、憎くて、憎くて、酷く気になって仕方ない。
「キス、したかったな…」
自然と、涙が溢れてきた。汚れてボロボロになってしまった肌の上を、透明な涙がポロポロと伝った。
気にしないって言ってたけど、私は気になるんだもん。悲しい。私、綺麗になりたい。変わりたい。
何かを変えるためには、まず自分が変わる必要がある。私は初めて皮膚科に行った。飲み薬と塗り薬を貰って、本気で治そうと意気込んだ。
ニキビになりそうな食事は控えて、たとえニキビを見つけても絶対に潰さないように気をつける。飲み薬と塗り薬を徹底して欠かさず服用した。それでもなかなか肌荒れが改善することは無かった。
やってもやっても、新しい吹き出物が顔を出す。許せなかった。すぐに効果が出るものではないとお医者さんから言われてはいたが、それにしても治る気配が見えないと、苛立ちが先に出る。鏡を見る度、ストレスが溜まってゆく。
許せない、許せない、早く治ってよお願い。
そう願って起きた朝に、鏡の前に立つと、そこには赤みが引いていつもよりマシな私の顔があった。
やった。治った。ついに治ったんだ!
嬉しくて涙が出る。このまま徐々に元の綺麗な素肌に戻れる。いや、戻すんだ。
そう決意して、いつもより早い時間に家を出る。心なしか足取りも軽い。肌が綺麗だと、いつもよりずっと、前を向いて歩ける気がした。
今日、沢村くんに会ったら、キスしようって言う。沢村くん、してくれるかな。
そんなことを考えながら、まだ早すぎて誰もいないはずの教室のドアを開けたとき。
「やべっ、誰か来た。」
「え…?沢村く…」
そこには確かに彼がいた。そして彼の隣には、どこか見覚えのある、でも知らない女の子がいた。二人は今、何かをしていた。私が来た瞬間離れたけど、確かに何か。よく見ると女の子の制服は乱れていて、両手で胸元を隠している。
朝の…教室で…、してたんだ。 沢村くん、浮気…してたんだ。
居ても立っても居られなくなって、私は教室から逃げ出した。外から聞こえてくる野球部の朝練の掛け声とともに、廊下を駆ける音が虚しく響く。
私、やっぱりダメだったんだ。つらい。悲しい、苦しい。私、何がダメだったんだろう。
逃げ込んだ女子トイレの鏡の前で、はたと自分の顔と目が合った。酷い顔をしていた。
肌、汚いな…。朝は綺麗だったと思ったけど、全然綺麗じゃないじゃん…。こんなんじゃ嫌われても仕方ないよ、こんな汚い肌で、全然ダメだった…。
涙が溢れた。ポロポロポロポロ、止めど無く流れた。もう、無理だと思った。堪えきれずに、嗚咽が漏れた。
ギィ……
「…っ!!!」
人がいたのだ。トイレで泣いてるところを見られたのは流石に恥ずかしかった。しかしもう遅い。制服の袖で必死に目元を拭う。
「あの…、大丈夫ですか?」
個室からそっと伺うように、女の子がこちらを見ていた。一目見てわかるほど、その子は美人だった。白い陶器のような肌に赤いリップが映えて、艶のある細いストレートの黒髪がたなびく。きちんと整えられた制服は、品の良さを醸し出していた。
恥ずかしい。
逃げ出したくなった。こんな姿、あんな可愛い子に、こんな惨めな姿……
「見ないで!!」
叫んでいた。初対面の相手に、しかも泣いているのを気遣ってくれた子に。どうしようもなく辛くなった。私、最低だ。
「よかったら使ってください」
目の前に差し出されたのは、花柄のハンカチだった。
「見ません。泣いてるところを見られたくない気持ちはわかります。でも制服汚れちゃうのも嫌でしょ。使ってください」
「え……?」
「そのハンカチ、あげますから。気にしないでください。これからきっと良いこと、たくさんありますよ。元気出してください」
思わぬ優しさに、心が緩んだ。傷ついた心に、見知らぬ女の子の温かい心遣いが痛いほど染みた。
私、変わりたかったんだ。自分に自信がなくて。ずっと変わりたかった。
何かを変えるためには、自分が変わるしかない。
「あの…!!どうしたらあなたみたいに綺麗になれますか」
考える前に声に出していた。
黒髪のストレートヘアが印象的な彼女は、青柳加奈と言った。奇遇にも隣のクラスで、なんなら委員会も同じだった。私たちはすぐに意気投合して仲良くなった。
「由樹ちゃん、コンシーラー使ってみたらどうかな?メイクなら隠したいもの、隠せるよ」
「コンシーラー…、使ったことない。加奈ちゃん、一緒に買い物付き合ってくれる?」
「もちろんだよ!今日帰り一緒に行こう」
加奈ちゃんにメイクのことを教わるのはとても楽しかった。今まで肌を治すことに頭がいっぱいで、アイメイクやヘアメイクを楽しむことは考えられなかった私にとって、それはとても新鮮で新しい、キラキラした世界だった。
アイメイクに興味を持っていざ化粧品売り場に行くと、今まで素通りしてきたコーナーには色んなアイシャドウがあって、そのどれもが輝いていて心が躍った。
かわいいなあ。これを付けてお出掛けしたい。
オレンジ、ピンク、ブラウン、レッド。様々な色のパレットが、なりたい私を想像させた。
勧められた少し高めのアイシャドウパレットを、おっかなびっくりレジに持っていき、家でこっそり開いた時、女の子に生まれてよかったと心底思った。この魔法のパレットで、何にでもなれる気がした。
「このコンシーラーは、肌に負担がかかりにくい成分で出来てるし、なにより化粧持ちするよ」
「そうなんだね!じゃあこれにするよ」
前よりずっと、笑顔が増えた気がする。肌を気にする時間よりも、どうやったらもっと綺麗になれるのか、自分に似合うメイクや髪型、服装を考える時間が増えた。
雑誌を読んで、研究して、化粧品売り場で実際に色やテクスチャーを試してみる。知らない世界がどんどん広がるようで、新しい自分を開拓していくようで楽しい。
鏡の前に立っても、もう怖くない。そう思えるようになった頃、あれほど気になっていたニキビはそっとどこかへ消えてゆき、そこには以前よりずっと垢抜けた、溌剌とした表情の私が立っていた。