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『君たちはどう生きるか。』我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ。

ネタバレにご注意。思いのままに綴らせていただきます。解釈は受け取る側の自由であり、創造は何よりも己の道であることを念頭に。

1、生まれるとは、ただ在ること。
在ることとは、生きること。

まず印象的だったのは、ペリカンとワラワラの関係性。羽を壊したペリカンは以下のように言う。「ここは地獄だ。どこまで飛ぼうが、辿り着くのはいつだってここだ。」「ここは魚が獲れにくい。ワラワラ(生の元)を食べるしか無い。」

ペリカンは群れを成す生き物だ。空を飛び、主人公のマヒトを襲おうとしたり、ワラワラ(命の元)を食べたりしながら、生きている。


マヒトははじめ、ワラワラを食うペリカンを嫌悪している。瀕死のペリカンに、「お前はワラワラを食べようとしたから、バチが当たった!」、自業自得であるかのような言い方をする。



しかし、ペリカンはペリカンなりに生まれた場所でただ生きることに専念していただけである。どこまで飛んでも、同じ場所に帰ってくる、魚がないから仕方なくワラワラを食べている…、、

その場所に生まれ落ちたから、その場所でどうにか生きるしかない。ペリカンは、ペリカンとして生まれたから、飛ぶしかない。
どこを目指しても、ペリカンにはペリカンの生き方しかできないのだ。生まれ落ちた場所は、誰にとってもいつかの地獄だ。
ペリカンにもペリカンなりの生があると気づき、マヒトは死んだペリカンを埋葬する。


生まれるとは、在るということで、在るためには生きるしかない。

では初めから何も無ければよかったのか?
生まれてくることに、価値は無いのか?


私たちは、生まれてくることの実体をもう見ている。それは、ワラワラである。
ワラワラは命の元、つまり生そのもの。
生そのものが手を伸ばして天へ昇る、それは、実体の意志によるものなのか、それとも必然なのか、奇跡なのか、絶望なのか、わからない。
ただ、マヒトやキリコがワラワラの昇華を尊んだように、生の瞬間は尊いものなのだということはいえる。

そして、その生まれ落ちた場所で、どうにかもがいて、飛んで、生きていくのだ。
ペリカンのように。

命は光だ。しかし、闇の中でまたたく光だ。
生の瞬間こそ尊いものだが、生そのものは本当に尊いか。誰しものいつかの地獄で、悩みもがきながら、血を吐きながら生きることは、光か。

そんなことはないのだろう。光が闇の中で明るく煌めくように、光と影は一体のものなのだろう。
おそらく、悪意と善意の本質はここにあると思う。

ラストシーン、マヒトは創造神である大叔父から、悪意のない積み木を渡され、「穏やかで平和な世界の構築」を頼まれた。
しかしマヒトは、俺は悪意を以て俺の頭を殴ったのだ、この手で悪意のない世界を作ることはできないと拒否する。

この場面で、私はナウシカのラストを思い出した。漫画版のナウシカは、世界を壊す、混沌の存在である。汚れた世界でしか生きられぬ改造人類と、清浄な世界で生きる旧人類がいて、ナウシカは改造人類側である。つまり、腐海の毒と共生するために作られた人間であり、逆説的に毒がないと生きることができない人間なのである。
ナウシカそのものが混沌であるように、生きるということもまた、混沌なのではないか。

毒と共に在るように、闇と共に在るのが生なのだ。だから、「悪意のない積み木」で「穏やかで平和な世界」を創ることなどできない。

それこそ、「創造」や「想像」(imagination)のセカイならば可能かもしれない。
大叔父が創造したあの塔の中の世界は、実はすべて誰かや、何かのimaginationなのかもしれない。
意識や、無意識の世界、内省的な心の現れ、だから、よく「わからない異世界」なのだろうか。
なぜ沢山インコがいるのか、夏子が産屋にいるのは何故か、青鷺はなぜサギ男なのか…。

考えることは山ほどある。余白と情報量が反比例している。考えるな、感じろ?なのか?

いや、ここはもう少しimaginationを広げよう。
考えて考え抜いて、答えのない問いを、自分なりの納得解で満足したい。
忘れないように、ここに記録しておこう。

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