すずめの戸締まり考察① 〜ロードムービーとしての「すずめの戸締まり」〜
新海誠監督作品の最新作「すずめの戸締まり」を観てきました。非常に考察のしがいある作品で、メッセージ性もあり、とても素晴らしい映画でした。私は昔から新海誠作品の大ファンで、3年間新作を心待ちにしていたので、公開がとっても嬉しかったです。
想いは言葉にしなければ伝わらないので、つらつら綴らせていただきます!非常に長いので、いくつかの投稿に分けて書いていきます。
※以下ネタバレ有りです。気をつけてください。
1、ロードムービーとしての「すずめの戸締まり」
すずめの戸締まりは、真の「ロードムービー」である。主人公の岩戸鈴芽は、呪いによって椅子に変えられてしまった「閉じ師」、宗像草太を救うという目的のもと、「災い」をもたらす扉を閉める旅に出る。2人は九州を起点に、四国、関西、東京、そして物語の終着地である東北へと足を進める。
「旅」とは、出会いだ。2人の行く先々には様々な人がいて、そこには確かに暮らしが流れていた。九州には、鈴芽と同い年で、家族経営の民宿を手伝う海部千果という女子高生がいた。関西には、女手一つで双子を育てスナックを営む、二ノ宮ルミという逞しい女性がいた。東京には、草太の友達で少しチャラい、しかし友人想いの芹澤明也がいた。
彼らとの出会いは、鈴芽の旅を手助けするだけでなく、鈴芽に「人々の繋がり」の暖かさを感じさせるものであった。そして同時に、場所は違えど、その土地には確かに人々の営みがあり、暮らしがあること、暮らしの中には、人々の「想い」があることを知らせるものであった。
旅による出会いによって、今、確かに流れている「想い」を、鈴芽は実感することができた。
各地に現れる「扉」を閉めるとき、閉じ師はその地に宿る人々の「記憶」を呼び起こす。「楽しかったね」「おはよう」「いってらっしゃい」「いってきます」「おかえり」…、何気ない日常と人々の営みが、昔、確かに流れていたことをもまた、鈴芽は強く実感するのである。
現在の出会いによって人々の繋がりを知り、それが過去の「繋がり」や「想い」をより明確な形として立ち上がらせる効果をもたらす。
それは現在と過去、今あるものと失われたもの、一見異なるように見えて、実は「同じ」だということを表している。土地には人々の暮らしが存在し、それは今も昔も変わらない、連綿とした営みなのだ。
そして物語が進むにつれ、最後の目的地が見えてくる。鈴芽の旅は、一つの明確な指針を持って進められていた。
全ては「あの日」を悼むために設けられたものであり、「あの日」、交わされることのなかった「行ってきます」と「ただいま」、
突然全てを飲み込んだ災害という不条理に消えた人々の営み、そんな不条理に対する怒り…、
鈴芽たちの旅は、それら全てを内包し、常世の中で今でも燃え続けている「人々の想い」と真摯に向き合い、悼むためのものだったのだ。
2、旅の意義
さて、旅というからには、「行って、帰ってくる」ことが必要である。この旅は、草太の呪いを解くだけでなく、鈴芽の心の奥に押し込められた過去の扉をきちんと閉め、帰ってくるところに、真の目的を持つ。
たどり着いた最終目的地、東北で彼らが対峙するのは、3月11日の震災だ。鈴芽の母は東日本大震災で亡くなっており、当時4歳の鈴芽は、母の死を受け入れられないでいる。冒頭に描かれるのは、青と緋の混じる常世の世界で、母を探して走る子供の鈴芽の姿である。
この物語は「すずめの戸締まり」とあるように、鈴芽が過去と向き合い、昇華させる…つまり、鈴芽が自身の過去に「戸締まり」をするという意味も掛けられている。
それはおそらく、「喪失からの再起」であり、
鈴芽を「救う」話でもあるはずである。