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頑張っている私を認めたら、次は頑張っていない私も認める
先日、「いつも頑張ってくれてありがとう」と自分に言えますか? という記事を書きました。
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多くの人が「別にそんなの言えてっし!」と思ったのか、「ぎゃあああああああああ言えねええええええええ」と心を八つ裂きにされたのか分かりませんが(笑)、かつての私と同じ自分責め族の人々は、たいてい自分が200点取れた時しか自分を労ってあげられません。
そしてその200点というのは「100点満点中の200点」という現実ではあり得ない点数なので、自分を労うのはほぼ不可能なんですよね。
あるいは、それほどまでに自分に厳しい自分に気づけていない人も、非常に多いです。
カウンセリングの現場でもよく「ご自分に厳しいですよねー」「え、どこがですか? このくらいのこと世間一般的にはできて当たり前じゃないですか?」という会話が飛び交っております。
しかしそんな人々の中にも、長年自分に厳しくムチを振るってきたことに自覚できる人がおり、
「私って本当は頑張ってきたんだ!」
「私ができることは“当たり前”じゃなかったんだ!」
「ここまで生き抜いてきた私、ありがとおおおおおお」
と知らず知らずのうちに頑張りまくっていた自分を、徐々に認められるようになってきます。
で、そこでみなさん「これでもう大丈夫!」と安心するのですが、それはまだ自分を認めるコースの“序の口”なんですよね。残念ながら。
ということで今日のテーマは、表題の「頑張っている私を認めたら、次は頑張っていない私も認める」です。
◆人々は“頑張らされている”のではないか
日本には“苦難を乗り越え頑張る”サクセスストーリーが多いですので、非常に多くの人が、頑張る教団の信者になりがちです。
日本の典型的な少年漫画の3大要素も「友情・努力・勝利」ですしね。
週刊少年ジャンプの柱・スローガンと言われているそうですが、
編集会議であるとか編集部員の話の中で、
「友情・努力・勝利」を重んじるべし、
みたいなことが話されたことは一度もない
とか、集英社のサイトでは
「友情・努力・勝利」というスローガンが広く知られていますが、実は今も大きく掲げているわけではありません。
という表記もあります。
実際言っていたか言っていなかったかはさておき、ひとまず令和の時代ではそこまで重要視されていない、というのは確かなようです。
ではなぜ多くの人は「頑張る」を美徳としているかというと、日本人の頑張りかたの多くって、思考能力と判断力を奪うんですよね。
睡眠を削るとか、食事をしないとか、水分を摂らないとか、暑いのや寒いのや痛いのを我慢するとか。頑張りまくっている人はモノをちゃんと考えられなくなるので、上の者が下の者を扱いやすくなるんですよ。
だから扱いやすくするために、“頑張らされている”んじゃないかなあ、というのが私の考えです。
ちょっとの頑張りで自分を認めたり、頑張っていない自分も認めるような人が増えてしまったら、思考能力と判断能力が正常になってしまって、扱いにくくなるじゃないですか。
実際私のカウンセリングに相談に来られる方も、「親が厳しかった」「親が何から何まで頑張る人だった」という人が多いです。頑張らせといた方が、そうやって思考能力や判断力を奪っておいた方が、子供は扱いやすい。
その代わり高校生くらいから心が壊れたり、成人してから犯罪を犯したり、そうでなければ自殺しようとする人が増えますけどね。
動物は生存本能があるはずなのに、人間が自らの命を断とうとするのは、頑張りすぎたせいで思考能力や判断力が鈍くなっているからなんじゃないでしょうか。
◆なぜ頑張っていない私、休んでいる私を認められないのか
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